ジッドゥ クリシュナムルティ (Jiddu Krishnamurti)
一八九五年インド・マドラス近郊生まれ。
十四歳のとき〈世界教師〉の器として神智学協会の霊能者に見いだされ、後に〈星の教団〉の指導者となるが、一九二九年に「真理は組織化しえない」としてこれを解散。
以後、世界各地をめぐり、講話・著作・対話を通して人々の覚醒を促し続ける。
一九八六年逝去。
一九二九年八月二日、オーメン・キャンプは、緊張と期待に満ちた雰囲気の中で開かれた。 参加者の多くは、これから何が起ろうとしているかを知っていた。
翌朝、ベザント夫人と、三千人以上にものぼる〈星の教団〉のメンバーを前にして、また、ラジオに耳傾ける多くのオランダ人に向かって、クリシュナムルティは〈星の教団〉の解散についての演説を行った。
「今日、これから私たちは、〈星の教団〉の解散について話しあいたいと思う。喜ぶ人々も多いだろうし、悲しむ人々もまたいることであろう。しかし、これは喜ぶとか悲しむとかいった問題ではない。なぜなら、これは避けがたいことだからである。その理由について私はこれから説明しようと思う。
私は言明する。〈真理〉はそこへ通ずるいかなる道も持たない領域である、と。
いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる教派によろうとも、諸君はその領域へ近づくことはできない。
これが私の見解であり、私はこの見解を絶対かつ無条件に確信している。
〈真理〉は限りないものであり、無制限的なものであり、いかなる道によっても近づきえないものであって、したがってそれは組織化されえないものなのである。
それゆえ、ある特定の道をたどるように人々を指導し、あるいは強制するようないかなる組織も形成されるべきではないのである。
諸君がまず最初にこのことを理解されるならば、あるひとつの信念を組織化することがいかに不可能なことであるか、おわかりになるであろう。
信念は純粋に個人的な事柄であり、それゆえ組織化したりすることはできないし、またすべきでもないのである。
ひとたび組織化したならば、信念は血の通わない、凝り固まったものとなってしまうだろう。それは、他人におしつける教義に、教派に、宗教になってしまうのだ。
ところがこれこそが今、世界中であらゆる人々がなさんと企てていることにほかならない。
〈真理〉は狭隘化され、弱い人々、たまさかに不満をくゆらせる人々の慰みものになってしまうのだ。
〈真理〉は諸君のところまでひきずりおろせるものではない。
そうではなくて、各人ひとりひとりがそこまでたどりつくよう精進しなければならないものなのだ。
諸君は、山頂を谷へ運び移すことはできない・・・。
以上が、私の見解よりした〈星の教団〉を解散すべきまず第一の理由である。
このように申しあげても、諸君はおそらく、別の〈教団〉を作りあげられることであろうし、〈真理〉を求めて別の組織に所属しつづけることであろう。
しかし、私としては、心霊的な類のいかなる組織にも属したいとは思わない。どうかこのことを理解していただきたい・・・。
真理探究の目的で組織を創立するならば、組織は松葉杖となり、弱点となり、束縛となって、人をかたわにし、かの絶対かつ無制約的な〈真理〉を自分自身で発見するために必要な、その人の独自性の成長と確立を阻害するものとなってしまうに相違ない。
これが、たまたま教団を率いる者となった私が、教団を解散しようと決意したもうひとつの理由である。
これは何らだいそれた行為ではない。私は信奉者を欲しないからだ。
私の言いたいのは、諸君が誰か特定の個人のあとを追うやいなや、〈真理〉のあとを追うことをやめてしまう、ということである。
私は、諸君が私の言うところに注意を払われるか払われないか、そのことには興味がない。
私はこの世であるひとつのことをなしたいと思う。私はそのことにたゆむことなく専念するつもりである。
私はある根本的なひとつのことにのみ関心を持っている。
人間を自由たらしめること、すなわちこれである。
人間をあらゆる獄舎から、あらゆる恐怖から解き放つこと、これが私の願いである。
私はいかなる宗教も、新しい教団も作りたくないし、いかなる新しい理論も、新しい哲学も確立したくはない。
諸君は当然こう問うことであろう、ではなぜあなたは、絶えず話しつづけながら世界をめぐるのか、と。
私がそうするわけを諸君にお話しすることにしよう。
新たな弟子がほしいからでも、特別の使徒たちからなる特別のグループがほしいからでもない(人間は何とその仲間たちと違っていたいと願うことであろうか。その相違がどんなに滑稽で、馬鹿げていて、些細なものであろうとも。私はそうした愚劣さを増長させたいとは思わない)。
私は、地上においてであれ、霊性の領域においてであれ、いかなる弟子も使徒も持ったりはしない。
金銭の誘惑も、安楽な生活への欲求も、私を引きつけない。
快適な生活を送りたければ、私は何もこのキャンプのようなところへ来たりはしないし、じめじめした土地で暮らしたりはしない。
私は歯に衣を着せずに申し上げているのだが、そのわけは、今回限りで、こういったことにはっきりと結着をつけてしまいたいからにほかならない。こういった子どもじみた議論を何年も何年も続けたくはないのだ。
私にインタビューしたある新聞記者は、何千人ものメンバーがいる組織を解散するとはまことにだいそれた行為だと考えた。彼にはそれは途方もない行為に思われた。
彼はこう言ったのである。「今後、どうなさるおつもりですか。どのように生きていくのですか。従うものはいないでしょうし、人々はもはやあなたの言うことに耳を傾けないでしょう」。
真実耳を傾ける人が、真実生きようとする人が、真実その顔を〈永遠〉に向ける人が五人いさえすれば、それでもう十分である。
理解しない人々、偏見にどっぷりつかっている人々、新しいものを欲せず、新しいものをむしろ自分の不毛でよどんだ自我に合わせて勝手に解釈しようとする人々、こういった人々が幾千いたところでいったい何になるのであろうか・・・。
私は自由であり、何ら制約されておらず、全体であり、部分的でも相対的なものでもない、一個の全体としての、永遠の〈真理〉であるがゆえに、私は私を理解しようとする人々もまた、自由であることを願うのである。私に従おうとしたり、私を使って、獄舎に等しい宗教や教団を作り出そうとするような人々を私は望まないのだ。
人々はむしろ、すべての恐怖から自由であるべきなのである ── 宗教の恐怖から、救済の恐怖から、霊性の恐怖から、愛の恐怖から、死の恐怖から、そして生そのものの恐怖から。
芸術家が、画を描くこと自体が楽しいがゆえに、それが彼の自己表現であり、栄光であり、幸福であるがゆえに画を描くように、そのように私も行うのであって、何らかの見返りを求めて行うのではない。
諸君は、諸君を霊性へ導いてくれると諸君が考える権威や、その権威の雰囲気に慣れ親しんでしまっている。
諸君は他の誰かが、その驚嘆すべき力 - 奇跡 - によって、〈幸福の国〉である永遠の自由の領域へ諸君を連れていってくれるものと考え、またそう望んでいる。
諸君の人生に対する見方全体が、そのような権威に基づいて行われているのだ。
諸君は今日まで三年間にわたり私の説くところを聞いてこられた。
しかし、ごく少数の者を除いては、いかなる変化も起りはしなかった。
いまや私の言っていることを検討され、批判され、徹底的に、根本的に理解されんことを・・・。
十八年間にわたり、諸君はこのことのために、〈世界教師の到来〉のために準備万端整えてこられた。
十八年間にわたり、諸君は組織作りを行い、諸君の心情と精神に新たな歓喜をもたらすであろう誰かを、諸君の人生全体を変容してくれるであろう誰かを、諸君に新たな理解をもたらすであろう誰かを待ち望んできた。
諸君は、諸君を生の新たな地平に引き上げてくれるであろう誰かを、諸君に新たな勇気を与えてくれるであろう誰かを、諸君を解放してくれるであろう誰かを待ち望んできたのである。
そして今、何が起っているかごらんになるがよい!考えられよ、諸君自信で判断され、そして、発見されよ。かかる信念によって諸君はいかなる変貌をとげられたかを。
バッジをつけるようになったとかいう表面的な変化ではない。それは瑣末で馬鹿げたことである。
判定する唯一のやり方はこうである。
かくのごとき信念が、人生の非本質的な物事すべてを、はたしてどのようにして一掃してしまったのだろうか。
虚偽と非本質的なものとにその基盤をおいているすべての社会から、諸君はどれだけ自由であり、どれほどはみ出し、そしてそのような社会に対して、どの程度危険なものになっているだろうか。
〈星の教団〉のメンバーはどんな点でどのように違ったものとなったであろうか・・・。
諸君はすべて、諸君の霊性を誰か他の者に求めている。
諸君の幸福を誰か他の者に求めている。
諸君の啓発を他の者に求めているのだ・・・。
私が諸君に、諸君自らの内部に、啓発を、栄光を、浄化を、自己の不滅性(注)を求められよと話しても、諸君のうち誰ひとりとして進んで耳を貸そうとはしないのだ。
わずかならいるかもしれない。しかしそれもごくごく少数にしかすぎない。それなのになぜ組織など持つ必要があろう・・・。
いかなる人間も、外側から諸君を自由にすることはできない。
組織化された崇拝も、大義への献身も諸君を自由にはしない。
組織を作りあげてみても、仕事に没頭してみても諸君は自由にはなれないのだ。
諸君は文字を打つためにタイプライターを使用する。しかし諸君はそれを祭壇に祭りあげ、崇拝したりはしないであろう。
しかし組織が諸君の主要関心事となるや、諸君はこれとまったく同じことを行うのだ。
「メンバーの数はどれくらいですか」、これがすべての新聞記者が私に聞く最初の質問である。
「信者は何人ですか」、その数によって、あなたの説くところが真実か虚偽か判断しましょう。
何人いるかなど私は知りはしないし、私にとってそんなことはどうでもよいのだ。
自由になった人間がひとりでもいさえすれば、それだけでもう十分である・・・。
繰り返して言う。
諸君はこう考えておられる。
ある特定の人々のみが〈幸福の王国〉への鍵を持っていると。
誰もそんなものを持ってはいない。誰ひとりとしてそんな鍵を持つ資格などありはしないのだ。
鍵は諸君自身の自己なのだ。その自己の開発と浄化の中に、その自己の不滅性の中に、その中にのみ〈永遠の王国〉は存在するのである・・・。
あなたはこれくらい進歩した、霊的位階はこんなところです、こう言われることに諸君は慣れ親しんでこられた。
なんと子どもっぽいことであろう!諸君が不滅であるかどうか、諸君以外の誰が諸君に語れよう・・・。
理解しようと本当に欲する人々、始めもなく終わりもない永遠なる〈かのもの〉を見出そうとしている人々は、さらに大いなる熱情をもって歩むだろう。
そして彼らは、非本質的なすべてのものにとって、真実でないものにとって、影法師にすぎないものにとって、危険なものとなるであろう。彼らは全精力を集中し、炎となるであろう。
なぜなら彼らは理解するからである。
このような人々の連帯をこそわれわれは創り出さなければならない。
これが私の目的である。
そうした真の友愛 ── これについて諸君はご存知ないように思われるが ── この友愛によって、各人の立場に立った真の協力が成り立つことであろう。
これは権威によるものでも、救済によるものでもなく、諸君が本当に理解することによるのであり、かくて諸君は、永遠の中に生きることが可能となるのである。
これはどのような快楽よりも、いかなる犠牲よりも偉大なものなのである。
以上が、二年間にわたる熟慮検討ののちに、私がこの決定を下すに至った幾つかの理由である。この決定は一時の衝動によるものではないし、誰かに説得されたわけでもない
── こういったことで私は説得などされはしない。二年間、私はこのことを考え続けてきた。
ゆっくりと、注意深く、忍耐強く。そして今、私は〈教団〉を解散することに決めたのである。私がたまたまその長となっているがゆえに。
諸君は他の組織を作ることもできるし、誰か他の者を期待することもできよう。
しかし私はそのことに興味はないし、新しい獄舎を作ることにも、その獄舎の新しい様々な装飾品を作ることにも興味はない。
私の関心はただひとつ、それは人々を、完全に、かつ無条件に自由たらしめることなのである」