更訂 H28.12.4


  仏陀の教え(法)を聞いている人と聞いていない人



『 比丘たちよ、教えを聞いていない凡人は、欲望による快楽以外には、苦の感受から離脱することを知らない』

『 比丘たちよ、教えを聞いていないこの凡人が、生まれること・老いること・死ぬこと・憂い・悲しみ・痛み・悩み・悶えによりて束縛されている者、苦に束縛されている者と言われるのである、と私は説く』


『比丘たちよ、教えを聞いている聖者の弟子は、欲望による快楽以外に、苦の感受から離脱することを知っているのである』

『比丘たちよ、教えを聞いているこの聖者の弟子が、生まれること・老いること・死ぬこと・憂い・悲しみ・痛み・悩み・悶えの束縛を離れている者、苦の束縛を離れている者と言われるのである、と私は説く』





  身体的な感受と精神的な感受


「比丘たちよ、教えを聞いていない凡人は、楽の感受をも感じ、苦の感受をも感じ、苦でも楽でもない感受を感じる。

 比丘たちよ、教えを聞いている聖者の弟子は、楽の感受をも感じ、苦の感受をも感じ、苦でも楽でもない感受をも感じる。

 比丘たちよ、この場合、教えを聞いている聖者の弟子と教えを聞いていない凡人とには、どんな差異、どんな区別、どんな相違があるのか」

「尊師よ、私どもにとりまして、教法は世尊を根本とし、〔世尊を導き手とし、世尊を依りどころとしております。尊師よ、どうか、いま説かれたことの意義を、世尊みずから明らかにされますように。私ども比丘は、世尊のお言葉を聞いて、心に留めさせていただきます。」

「比丘たちよ、では、聞いてよくお考えなさい。私は説こう」

「かしこまりました。尊師よ」とかの比丘たちは世尊に答えた。

世尊はこう仰せられた、〕
「比丘たちよ、教えを聞いていない凡人は、苦の感受に触れているとき、憂い、疲れ、悲しみ、胸を痛めて泣き、途方に暮れる。 かれは二種の感受を感じる。
 身体的な感受と精神的な感受とである。

 比丘たちよ、たとえば、人を一本の矢で射貫くとし、この人を二本の矢でも射貫くとしよう。比丘たちよ、かくして、その人は二本の矢の感受を感じる。
比丘たちよ、これと同じくように、教えを聞いていない凡人は、苦の感受に触れているとき、憂い、疲れ、悲しみ、胸を痛めて泣き、途方に暮れる。
 かれは二種の感受を感じる。
 身体的な感受と精神的な感受とである。

 そして、その苦の感受に触れているとき、かれは怒りをいだくことになる。
苦の感受によりて怒りをいだくこの人には、苦の感受による怒りという習性がつきまとう。

 かれは、苦の感受に触れているとき、欲望による快楽を慶ぶ。それはどうしてか。

 比丘たちよ、教えを聞いていない凡人は、欲望による快楽以外には、苦の感受から離脱することを知らないからである。
欲望による快楽を歓んでいるその人には、楽の感受による貪りという習性がつきまとう。

 かれは、これらの感受の生起と消滅と味と患いと離脱とをありのままに知ることがない。

 これらの感受の生起と消滅と味と患いと離脱とをありのままに知らないでいる人には、苦でも楽でもない感受による無知という習性が付きまとう。

 かれがもし楽の感受を感じるなら、束縛された者としてそれを感じる。もし苦の感受を感じるなら、束縛された者としてそれを感じる。もし苦でも楽でもない感受を感じるなら、束縛された者としてそれを感じる。

 比丘たちよ、教えを聞いていないこの凡人が、生まれること・老いること・死ぬこと・憂い・悲しみ・痛み・悩み・悶えによりて束縛されている者、苦に束縛されている者と言われるのである、と私は説く。

 比丘たちよ、しかし、教えを聞いている聖者の弟子は、苦の感受に触れていても、憂えず、疲れず、悲しまず、胸を痛めて泣かず、途方に暮れることがない。
 かれは一種類の感受をのみ感じる。
 身体的な感受をであり、精神的な感受ではない。

 比丘たちよ、たとえば、人を一本の矢で射貫くとし、この人を二本の矢では射貫かないとしよう。
 比丘たちよ、かくして、その人は一本の矢による感受を感じる。
 比丘たちよ、これと同じように、教えを聞いている聖者の弟子は、苦の感受に触れていても、憂えず、疲れず、悲しまず、胸を痛めて泣かず、途方に暮れることがない。
 かれは一種類の感受をのみ感じる。
 身体的な感受をであり、精神的な感受ではない。

 そして、その苦の感受に触れていても、かれは怒りをいだくことがない。苦の感受によりて怒りをいだくことのないこの人には、苦の感受による怒りという習性が付きまとわない。

 かれは、苦の感受に触れていても、欲望による快楽を歓ばない。

 それはどうしてか。

 比丘たちよ、教えを聞いている聖者の弟子は、欲望による快楽以外に、苦の感受から離脱することを知っているのである。

 欲望による快楽を歓んでいないその人には、楽の感受による貪りという習性が付きまとわない。

 かれは、これらの感受の生起と消滅と味と患いと離脱とをありのままに知る。これらの感受の生起と消滅と味と患いと離脱とをありのままに知っている人に、苦でも楽でもない感受による無知という習性が付きまとわない。

 かれがもし楽の感受を感じるなら、束縛を離れた者としてそれを感じる。もし苦の感受を感じるなら、束縛を離れた者としてそれを感じる。もし苦でも楽でもない感受を感じるなら、束縛を離れた者としてそれを感じる


 比丘たちよ、教えを聞いているこの聖者の弟子が、生まれること・老いること・死ぬこと・憂い・悲しみ・痛み・悩み・悶えの束縛を離れている者、苦の束縛を離れている者と言われるのである、と私は説く。

 比丘たちよ、教えを聞いている聖者の弟子と教えを聞いていない凡人とには、実にこの差異、この区別、この相違がある。


 智慧のある学識豊かな人は、楽の感受をも苦の感受をも感じない。これが、有能な賢者と凡人との大きな差異である。

 理法を究め、学識豊かで、この世とかの世とを正しく観じている人の心を、好ましいことがらもかき乱すことはない。
好ましくないことがらによりて憤慨することもない。

 かれは、好感や反感が亡ぼされており、消滅していて、存在しない。
そして、塵を離れた憂いのない道を知って、生存の極致に達した者となり、正しく涅槃を知るのである」






 HPで紹介しているのは仏陀の教えですので、教えを聞いている人とは、このHPで仏陀の教えを知った人も含まれていると思います。

 ここで知った教え、すでに貴方の記憶に入っている教えは、上に行く教え・天に行く教え、それよりも以上の涅槃への教えである仏陀(聖者)の教えでありますので、

自動的に、上がる準備。どちらにしても最終的に自己次第。全き善、全き清浄。と。


 そして、教えを知っているけれども、ゲームだとか言って、ノリノリで集団意識にとられている輩は残念ながら、その時点で、わかりやすい盲目。目は覚めていない。

 一人でいるときと、集団にいるときの自己の意識を見たことがありますでしょうか。
 ノリノリで、そこに悪意まで生じてしまうという。それらはその本人が愚かな事柄をしていても、集団意識になると、その愚かな事柄をした人は、普通の人から見たら、たとえ愚かな事柄であっても、その人自信はそれをしたということで英雄的な感情をもってしまうという。そんな感じ。
それが、集団意識なわけで。

 その集団意識は自己ではない。

 そこらへんは心理学でもありますけれども。メディアはやっぱりうまく集団意識を使っていますね。

 その結果、最近は、若いノリのいいお兄ちゃんとお姉ちゃんたちは完璧に乗っかっているのを目と耳にする。

 集団意識とはそういうものだから、気を付けた方がいいと思いますよ。

 悪魔、悪霊と戦うとか以前の話。社会的な問題なのだろうか。

 あっさり扇動されて、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、何回も何回も繰り返しているように見える。

 先に書いているとおりなだけ。畜生霊の仲間達側が最初からそういう意図で、こういうわけのわからないことになっているんだから、悪しく言うのは、想定内。

 しかし、本当にいましたね。悪魔の誘惑にひっぱられている集団が。畜生霊の方にひっぱることひっぱること。どっからどこまで悪魔の誘惑にひっぱられているんだかは知らないけれども。善ではない。

 一般の人は、だから、自分で書物等を読んで自分で理解するべきですよと伝えているのですが、

 扇動されて、乗っかっちゃう人はもともとそういうものとも接点もあまりないのかな。と。

 それは、こうなんだよ。だから、その悪行は辞めなさいとか教えてくれる人が、いないからそうならざるえないのか。

 集団意識に乗っかっている者は、感情が高揚しているから、諭し難いかな。冷静になって見たほうがいいと思われる。

 現在のメディアは見て、聞いて異常なところは多いから。(一応、幻聴のたぐいとかなのかっwて、いまさら、それもないけど、友人にも聞いたら最近のメディアが異常だと言うことでありますので。)

 畜生霊の仲間達のなんらかの作戦は、失敗したのかなんなのか。人(善なる人達、一般人)を導く器も、残念ながら、すでに全くないと思うけど。

 テレビとかラジオとか、歌とかモノマネも低俗すぎて、快いわけもなく。どうとらえても、品位のある集団ではありえない。
(ちなみに、こっちの品位は別にそこらの兄ちゃんくらい。)(三のグループとか、Mとか、そういうのは私と関係がない。)

 そして、若い兄ちゃんたちはノリノリで集団意識に乗っかってるし。

 若い人たちは、扇動されやすいのかな(違う意味で自分がない)。

 その、社会に対して、何かしらの感情をガッツリとだすとか、そういう感情を爆発させるような気持ちもわかるっちゃわかるか、わからなくもない、ん、わからないこともない。わかるかもしれない。まぁ、理解はできないはことはないと思う。

 あまりにもちょっと見てて、子供すぎる感じもしたりもする。まぁ、なに!青春か。ん、情熱か!ん、何!?。まぁ、考え方がまだ大人ではないのであろうというはわかる。ん、、若いから目立ちたい年頃か。まぁ、そういうのはあれだけど。

 歌手の人とか、普通の歌とか歌っていたほうがあとからなって、いいと思います。

 ノリで自分と関係ない人を悪く言うのは、あとからになって恥いるもとになりえると思う。人として礼儀が全くない。




 そして、話を戻しまして、

 ちなみに、好感や反感が亡ぼされており、というところで、それでは、「教えを聞くことにより感情が豊かではなくなってしまう」等と思ってしまうのは否。

 それは教えを聞いていない人。苦を知らない人、四聖諦を知らない人。
(経典にもありますが、出家者である聖者方は感情表現豊かに、自らの出家する以前の話も説かれています。当然ですが、一般世間の喜怒哀楽、怨憎会苦、快楽への執著をも理解しています。)

 教えを聞いている人のところで、
 かれがもし楽の感受を感じるなら、束縛を離れた者としてそれを感じる。
 もし苦の感受を感じるなら、束縛を離れた者としてそれを感じる。
 もし苦でも楽でもない感受を感じるなら、束縛を離れた者としてそれを感じる。

 そして、かれに好感や反感が亡ぼされており、消滅していて、存在しない。

 要するに、理解して、苦である感受を厭い離れている。感受作用に執著していない。

 これは、教えを聞いている人。聖者の弟子。聖者。


 教えを聞いていない凡人が、生まれること・老いること・死ぬこと・憂い・悲しみ・痛み・悩み・悶えによりて束縛されている者、苦に束縛されている者と言われるのである。

 教えを聞いている聖者の弟子が、生まれること・老いること・死ぬこと・憂い・悲しみ・痛み・悩み・悶えの束縛を離れている者、苦の束縛を離れている者と言われるのである

 一般人として、精神的な感受(苦)をも感じてしまうということは普通でしょう。
 教えを聞いている人が、生まれること・老いること・死ぬこと・憂い・悲しみ・痛み・悩み・悶えの束縛を離れることは可能である、苦の束縛を離れることは可能である。と。H28.1.27































H28.1.27