更訂 H28.1.30
仏陀と法と僧伽を憶念することについて 護経
『仏陀と法と僧伽とを憶念するならば、汝らの恐怖も、戦慄も、身の毛のよだつことも、除かれるであろう』
幢の先
このようにわたしは聞きました。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にある孤独な人々に食を施す長者の精舎にましました。
そこで、世尊は比丘たちに「比丘たちよ」と話しかけられました。
彼らが「大徳(世尊)よ」と世尊に答えると、
世尊は、つぎのように説かれました、
「比丘たちよ、遠い昔のこと、天の神々とアスラとの間に戦いが起こった。
比丘たちよ、その時、神々の主である帝釈天は三十三天の神々に呼びかけた、
『友よ、もし戦いにおもむいて、恐怖が起こり、戦慄が起こり、身の毛のよだつことが起こったならば、汝らはわが幢の先を見上げよ。
汝らがわが幢の先を見上げるならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。
汝らがもしわが幢の先を見上げることができなかったならば、その時は、かのパジャーパティ(生主・世界創造神)の幢の先を見上げるがよろしい。
汝らが、かの天王の幢の先を見上げるならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。
また、汝らがもしわが幢の先を見上げることができなかったならば、その時は、かのヴァルナ(水神・または律法神)の幢の先を見上げるがよろしい。
汝らが、かの天王の幢の先を見上げるならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。
(また、汝らがもしわが幢の先を見上げることができなかったならば、その時は、かのイーサーナ(伊沙那)の幢の先を見上げるがよろしい。
汝らが、かの天王の幢の先を見上げるならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう)』と。
比丘たちよ、彼ら天の神々たちは、神々の主である帝釈天の幢の先を見上げるときに、あるいは神々の王であるパジャーパティの幢の先を見上げるときに、あるいは神々の王であるヴァルナの幢の先を見上げるときに、(あるいは神々の王であるイーサーナの幢の先を見上げるときに、)恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれることもあろうし、あるいはまた除かれぬこともあるであろう。
それは何故であろうか。
彼ら天の神々は、いまだに貪りを離れず、瞋りを離れず、愚かさを離れず、心臆して、戦慄し、恐れおののき、逃げてしまうからである。
比丘たちよ、わたしもまた、このように語る。
比丘たちよ、汝らがもし森におもむき、あるいは樹下にいたり、あるいは空屋に入りて住しようとも、恐怖が起こったならば、戦慄が起こったならば、身の毛のよだつことがあったならば、その時はわたしを憶念するがよろしい。
『 世尊は、
(煩悩から遠いこと・煩悩の敵を殺したこと・輪廻の輪の輻を破壊したこと・(悪を)隠さないこと・供養を受けるに値することによって)阿羅伽〔應供・阿羅漢 arahat〕であり、
(正しく自ら一切法を覚ったことによって)正等覚者〔正自覚者・三摩三仏陀 samma-sambuddh〕であり、
(三明・八明・十五行を具えることによって)明行具足であり、
(涅槃に到達したこと・善い話をすること・善く修行してきたことによって)善逝〔修伽陀 sugata〕であり、
(有情の世界・現象の世界・空間の世界を知ることによって)世間解であり、
(戒などが無上であることによって)無上士であり、
(制御されるべきものを、制御することによって)調御丈夫であり、
(神々や人間を教誡することによって)天人師であり、
(四つの真理を自ら覚り・自分の覚った道を世間に覚らせることによって)仏陀であり、
(自在・道・果・涅槃の出世間法・名声・吉祥・意志・努力精進の福運あることによって)世尊〔薄伽梵渡 bhagavat〕である』と。
比丘たちよ、汝らが、このようにわたしを憶念するとき、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。
また、もし、汝らが、わたしを憶念することができないならば、法を憶念するがよろしい。
『かの法は世尊により善く説かれたものである。
すなわち、それは、現に証せられるものであり、時をへだてずして果報あるものであり、来り見よというべきものであり、よく涅槃に導くものであり、また、智者がそれぞれに自ら知るべきものである』
比丘たちよ、汝らが、このように法を憶念するとき、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。
また、もし、汝らが、法を憶念することができないならば、僧伽を憶念するがよろしい。
『世尊の弟子の集いは、善く実践している。
世尊の弟子の集いは、正直に実践している。
世尊の弟子の集いは、道理にもとづいて実践している。
すわなち、四向四果の聖者がそれである
この世尊の弟子の集いは、供養さるべく、尊敬さるべく、施与を受けるべきであり、合掌さるべきであり、この世間の人々の無上の福田である』
比丘たちよ、汝らが、このように僧伽を憶念するとき、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。
それは、何故であるか。
如来・應供・正等覚者は、すでに貪りを離れ、瞋りを離れ、愚かさを離れ、心臆せず、戦慄せず、恐れおののかず、逃げ去らないからである」と。
世尊は、そのように仰せられた。
そして、また、つぎのような偈を説かれた、
「あるいは森のなか、あるいは樹の下の人なくして淋しき場所にあろうとも
比丘たちよ、正等覚者を思念するがよい。
そうすれば、汝に恐怖は起こらないであろう。
もしこの世の主、衆生の導師たる仏陀を憶念することができないならば、善く説かれ、涅槃に導く法を憶念するがよろしい。
もし善く説かれ、涅槃に導く法を憶念することができないならば、この世間の最上の福田である僧伽を憶念するがよろしい。
比丘たちよ、このようにして
仏陀と法と僧伽とを憶念するならば、汝らの恐怖も、戦慄も、身の毛のよだつことも、起こらないであろう」と。
旗先経 ダジャッガ・スッタ