更訂 H28.12.26



  施すことについて



『未来の安楽のもとになる功徳を学ぶべきである。

 施しと、平静なふるまいと、慈しみの心とを修練するべきである。

 安楽を生ずるもととなるこれら三の事柄を修練して、賢い人は、憎悪の思いがない安楽な世界に生まれる』





【もの惜しみをしなかった彼らは、他に分け与えることの果報を享受する】


  施すこと

 たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている。

「比丘たちよ、もし生あるものたちが、私の知るように、布施・施し分け与えることの果報を知っていたならば、
 他に食を与えずに食べることはなく、もの惜しみの汚れを心にいだいて住することははない。
 たとえ、食物の最後の一個・最後の一口分でもある者は、施しを受けるべき人がいれば、その人に分け与えずに、自分だけで食べるということはしないであろう。

 しかし比丘たちよ、
 実際には、生あるものたちは、私が知るように、衆生はこのような布施・施し分け与えることの果報を知らないために、
 他に与えずに食し、もの惜しみの汚れを、その心にいだいて住する」

このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた、

「もし生あるものたちが、偉大な聖仙の説かれたように、他に布施・分け与えることの大果がいかに大きいかを知るならば、
 浄らかな心をもちて、もの惜しみの汚れを払い去り、大きな善果をもたらす聖者たちに適時に施すが善い。

 多くの人に食物を施し、また、布施を受けるに値する聖者に布施を成して、施主たちは、この人間界から死去して、天上界に行く。
 天上界に行った彼らは、そこで欲するままに楽しむ。
 もの惜しみをしなかった彼らは、他に分け与えることの果報を享受する」

 このことをもまた世尊が説かれた、と私は聞いている。


イティヴッタカ





 一輪の花を献じて、わたくしは八億年のあいだ天の諸々の世界をへめぐって、(さらにその)余福によりて、安らぎに達しました。
  カンダスマナ長老


テーラガーター





【分ち難きものを分かち与え、成し難き行いを成す人々(の行いを)、悪人はまねて行うことはできない。
 善き人々の法は、従い行くこと難し。
 それ故、善人と悪人とは、死後には異なったところに赴く】


  もの惜しみ

 在るとき尊師は、サーヴァッティー市のジェータ林なるアナータピンディカの園の住しておられた。
 その時多くのサトゥッラパ群神たちは、夜が更けてから、容色うるわしく、ジェータ林を遍く照らして、尊師のもとに赴いた。
 近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに立った。

傍らに立ったある神は、尊師に向って次のような詩をとなえた、
「もの惜しみと怠慢とのゆえに、このような施与はなされない。
 功徳を望んで期待し道理を識別する人によりて、施与がなされるのである。」

そこで他の神が、尊師に対して次の詩をとなえた、
「もの惜しみする人は、何かのことを恐れて施与をしないのであるが、
 そのことこそ、施与をしない人にとって怖ろしいことなのである。

 もの惜しみをする人が恐れるのは、餓えと渇きであるが、
 この世とかの世において、それが愚人に触れる。
 それ故にもの惜しみの心を抑えて、汚れに打ち克って、施与をなせ。

 功徳は、来世における人々の足場となる」と。

次に、他の神が、尊師に対して、次の詩をとなえた、
「曠野の旅の道づれのごとく、乏しき中より分かち与える人々は、
 死せる者どものうちにあって滅びず。
 これは、永遠の真理である。

 或る人々は、乏しき中から分かち与え、或る人々は、豊かであっても与えない。

 乏しき中から分かち与えたならば、、〔その施与は〕千倍にも等しいと量られる。」

ついで、他の神は、尊師に対して、次の詩をとなえた、
「分ち難きものを分かち与え、成し難き行いを成す人々(の行いを)、悪人はまねて行うことはできない。

 善き人々の法は、従い行くこと難し。

 それ故、善人と悪人とは、死後には異なったところに赴く。

 悪人は地獄に赴き、善人は天上に生まれる。」

次いで、他の神は、尊師に向ってこのように言った、
「尊師さま。みごとにとなえられたのは、誰の詩でしょうか」

〔尊師いわく、〕
「そなたらのどの詩も、すべて、順次にみごとにとなえられた。それでは、私の詩にも耳を傾けよ。

『落穂を拾って修行している人でも、妻を養っている人でも
 乏しき中から分かち与える人は、法を実践することになるであろう。

 千の供犠をなす人々の百千の供犠も、そのような行いをなす人の〔功徳の〕百分の一にも値しない』」

そこで、他の神は尊師に対して、次の詩をとなえた、
「これらの供犠をなす人々の、大がかりな豊かな祭祀は、どうして、正しくなされた施与の百分の一にも値しないのですか。

 千の供犠をなす人々の百千の供犠も、そのような施与をなす人の〔功徳の〕百分の一にも値しないのは、なぜですか」


そこで尊師は、その神に向って次の詩をとなえた、

「或る人々は悪い行いになずんで、ものを与える。

 生きものを傷つけ、殺し、また苦しめ悩まして。

 そのような贈与は、涙にくれ、暴力をともない、正しい施与には値しない。

 同様に、千の供犠をなす人々の千の供犠も、そのような施与をなす人の〔功徳の〕百分の一にも値しない」と。


サンユッタ・ニカーヤ





  スメーダー尼

 マンターヴァティーの都において、コーンチャ王の第一王妃に、スメーダーという女児〔王女〕があり、(聖者の)教えを実行して喜んでいた。

 彼女は、徳行をそなえ、弁舌がすばらしく、博聞であり、仏陀の教えにおいて修学していた。

(彼女は、)母と父とに近づいて言った、

「お二人とも、お聞きください。

 私は安らぎの境地〔涅槃〕を楽とします。生存のうちにある者は、たとえ天界の者でありて(神の身ですらも)、常住ではありません。まして空虚で、甘味少なく、悩みの多い諸々の欲望は、なおさらのことです。

 愚者どもが迷う諸々の欲望は、つらく苦いもので、蛇の毒にも譬えられます。彼らは、地獄に堕ちるように定まっていて、長い間、苦しみ、害なわれます。

 愚者どもは、つねに身体と言葉と心を慎しまず、悪行(罪業)を犯して、悪しき境界〔悪趣〕に堕ち、(そこで)己の罪業を識り悲しみます。

 これらの愚者どもは、邪智ありて(智慧にとぼしく)、思慮なく、苦しみの生起に関する道理に暗く、説き示されても、無智にして四の尊い真理〔聖諦〕を知ることがないのです。

 母上よ。多くの人々は、尊い仏陀の説きたもうた真理を知らずして、迷いの生存を喜び、神々の間に生れることを望む者が、きわめて多いのです。

 しかし、たとえ神々の間に生れても、やはり無常なる生存のうちに属し、常住ではありえない。しかし、愚人らは、繰り返し生れ出ねばならないことを恐れません。

(地獄・餓鬼・畜生・修羅の)四の堕ちいくところと、(人間界と天界との)二の境界は、何とかして得ることができるでしょう。
 しかし、それらの堕ちいくところに生れた者たちが、諸々の地獄において、出家を得ることはできません。

 私が、十の力ある人(仏陀)の教えにおいて出家することを、二人とも、お許しください。
 私は、(世俗の事柄に)願い求めることなく、生死(輪廻)を捨てるために、努めましょう。

 迷いの生存、堅固でない身体をもつ宿命を、どうして喜ぶでしょうか。生存に対する愛執を滅ぼすために、私は出家しましょう。

 諸々の仏陀方は、出現されて、お会いできない不運な機会はさけられ、(いまや、幸せな)機会が得られました。
 私は、諸々の戒行と浄らかな行いを、生きている限り、汚しはしません」

(さらに、)スメーダーは次のように語った、
「母上と父上よ、私が在家者である限り、食物を摂らず、ただ死の支配に身を任せましょう」

 母は苦しみ、泣きました。父も彼女(スメーダー)からすっかり衝撃を受けました。二人は、ともに、高殿の床に倒れている彼女をなだめようと努めました。

「我が子よ、起きなさい。憂い悲しみて、どうなるのです。そなたは婚約しているのです。ヴァーラナヴァティー(という都)のアニカラッタ王は、容姿端麗です。そなたは、その方に嫁ぐことになっているのです。

 そなたは、アニカラッタ王の妻、第一王妃となるでしょう。
 我が子よ、諸々の戒行の規定、浄らかな行いの生活、出家は成し難いことです。

 王権のうちに、命令権、財宝、権勢、楽しい快楽があります。そなたは若い。諸々の欲望を享受しなさい。我が子よ、そなたは結婚すると決めなさい。

 そのとき、スメーダーは、彼らに語った、
「そのようなことはありません。生存は、はかなく堅質ではありません。出家するか、死ぬか、わたしの選択はそのどちらかです。結婚は致しません。

 不浄で、悪臭を放ち、怖るべく腐敗して行く身体、つねににじみ出て不浄に満ちたる屍体の革袋にどうして執著する要がありましょうか。

 私は、(身体を)どのようなものだと知っているのか。
 身体は、肉と血で塗られ、虫どもの棲みかであり、鳥どもの餌食であり、厭なものです。どうして、その身体が、我らに与えられるのでしょうか。

 この身体は、やがて意識を失うと、死骸の棄て場所に運ばれる。親族に嫌悪されて、木片のように棄てられてしまう。

(屍体を)葬いの場に棄てて、他の(生物の)餌食とし、忌み嫌う人々は、沐浴をします。生みの父母(ですらも、そのようにします。)まして、一般の人々は、なおさらのことです。

 身体は、はかなく堅質ではないものです。その骨と筋肉との集合体で、唾液や涙や大小便に満ち、腐敗していく身に、人々は執著しています。

 もしも人が、その(屍体)を解剖して、内部の物を外に取り出して見せるならば、その臭気にたえないで、(死者の)生みの母でもそれを嫌悪するでしょう。

 個人存在の(五の)構成要素・(十二の)領域・(十八の)要素は、形成されたものであり、生をその根本としていて、苦しみである、と、理に適いて正しく考察反省するならば、私はどうして結婚を望みましょうか。

 新しく磨いた槍三百本で、毎日、身体を刺し続け、たとえ刺し続けることが百年続こうとも、(それによりて)苦しみの消滅が起こるのであるならば、そのほうが勝れている。

『繰り返し悩まされているそなたたちにとりて、迷いの生存(輪廻)は長い』という、このような師〔仏陀〕の言葉を知っている者は、繰り返し刺されることに身をゆだねるべきであります。

 天界・人間界・畜生たち、阿修羅の群れ、餓鬼たち、諸地獄において、苦痛の衝撃が限りなく見られます。

 地獄の中に(多くの殺害の衝撃が)あり、(地獄より他の)悪趣に堕ちて苦しみ悩んでいる者にとりても、同様です。(多くの殺害の衝撃があります。)
 天界においてすら、避難の所はなく、安らぎの境地〔涅槃〕に勝るものはありません。

 十力ある人(仏陀)の言葉に専心し、(世俗の事柄に)願い求めることなく、生死(輪廻)を捨てるために、努めた人々は、安らぎに達しました。

 父上よ。今日こそ、私は出家いたします。はかなく賢質なき享楽に何の要がありましょうか。私は、多羅樹の頂きを切ったかのように、諸々の欲望を厭い離れています」

 彼女は、父にこのように言った。
 さて、彼女と婚約していたアニカラッタ(王)は、婿決めの時が近づくと、若い人々に囲まれてやって来た。

 そのとき、スメーダーは、黒くふさふさした柔らかい髪を切りて、宮殿の戸を閉じて、第一段階の禅定に入った。

 彼女が、そこで、禅定に入ったときに、アニカラッタ(王)も都に到着した。彼女はまさに楼閣において、無常の想いを修した。

 ちょうど彼女が念いを凝らしていたときに、アニカラッタ(王)は、急いで昇り来た。

彼は、宝石と黄金で身を飾っていたが、掌を合わせて、スメーダーに懇願した、

「王位は、権勢・財宝・主権・楽しい快楽があります。あなたは若い。諸々の欲楽を享受なさい。諸欲の快楽は、世間でも極めて得難いものです。

 王国はあなたに託されています、栄華を享受しなさい。人々に施しをなさい。憂いに沈んではいけません。あなたの両親は、苦しんでおられます」

そのとき、諸々の欲望を求めず、迷妄〔愚癡〕を離れたスメーダーは、彼に向かって、こう言った、
「諸々の欲楽を喜んではいけません。諸々の欲望にはわざわいのあることを見なさい。





 四州(全大陸)の王マンダータルは、欲望に耽溺することを極めた人でしたが、ついに満足することなく死にました。
 彼の欲求はかなえられませんでした。

 たとえ雨神が、七種の宝を、あまねく十方に降らそうとも、諸々の欲望は飽くことを知らず、人々は、満足することなしに死にます。

 諸々の欲望は、剣の刃に譬えられます。諸々の欲望は、蛇の頭に譬えられます。

 それは、焼く(が故に)タイマツに譬えられ、無残に打ち砕かれる(が故に)骸骨に似たものとされます。

 諸々の欲楽は無常にして、はかなく堅固ではない、苦しみ多くして、毒も大きいのです。灼熱した鉄丸のようなもので、罪を根本として、結果・報いとして苦悩を生じます。

 諸々の欲楽は、苦しみをもたらすものの故に、樹の果実に譬えられ、肉塊に譬えられます。諸々の欲楽は、夢のごとくに欺くものとして譬えられ、借りた品に譬えられます。《それらは、自身のものに非ず。》

 諸々の欲望は、槍の尖に譬えられ、疾病、腫瘍、痛苦、破壊者です。
 火坑のように、罪を根本として、恐怖を与えるもの、殺害するものです。

 このように、諸々の欲望は、多くの苦しみを伴ない、障害をなすものだと説かれます。立ち去ってください。私自身は、この生存にたいして何の信頼もおいていないのです。

 自分自身の頭が焼かれているときに、他人は私のために、何をしてくれるでしょうか。老いや死が追いせまるので、それを滅ぼすために、励まねばなりません」

戸を開けて、母と父とアニカラッタ〔王〕とが、地上に坐って泣き悲しんでいるのを見て、彼女は次のように言った、

「始めも終わりも無き輪廻の世界において、父の死や兄弟や自分自身の殺害の起ったときに、繰り返し泣き叫ぶ愚者どもにとりて、迷いの生存(輪廻)は長いのです。

 涙と、乳と、血と始めも終わりも無き輪廻を想い浮かべてください。生ける者どもが輪廻して、骸骨が積み上げられたのを思い浮かべてください。

 涙と乳と血とを集めると、四の大海になることを思い浮かべてください。〔一人の人の〕一劫の間の骨を集めると、ヴィプラ山にも等しい大きさとなることを思い浮かべてください。

 輪廻する者にとりて、ジャンブー州なる大地は、始めも終わりも無い輪廻の世界に譬えられます。その大地を〔細分して微小なものとして〕棗の核ほどの丸さにしても、母の、そのまた母の数に追い付きません。

〔父祖の数を〕草や木片や枝や葉の数と比べると、始めも無く終わりも無いものであると思い浮かべてください。(草や木片等)を分壊して四指の長さほどの丸い玉にしても、父の、そのまた父の数に追い付きません。

 東の海に浮かぶ盲亀が西から流れてくるクビキの穴に、その頭を突き込むという〔譬え〕を思い浮かべてください。それは人身は得難いということを示す譬えなのです。

 泡沫の塊りに譬えられる、はかない身体の宿命を思い浮かべてください。身を構成する〔五の〕要素の集まりは無常であるのを見てください。多くの苦痛を与える地獄のことを思い浮かべてください。

 あれこれの生存において、我々が繰り返し、墓場を満たして行なったことを想い起こしてください。鰐の恐怖を思い浮かべてください。そうして四の真理をじっと思い続けなさい。

 寒露(不死の飲料)が存在するのに、なぜ、あなたは、五種の辛いものを必要とするのですか。けだし、あらゆる欲望の快楽は、五種の辛いものよりも、さらに辛いのです。

 寒露が存在するのに、なぜ、あなたは、熱で焼き焦がす諸々の欲望を求める要があるのでしょうか。けだし、あらゆる欲望の快楽は、燃え上がり、煮えたぎり、むらむらと怒り立ち、焼き焦がしているからです。

 どこにも敵がいないのに、なぜ、あなたは、多くの敵のある諸々の欲望を求める要がありましょうか。諸々の欲望は、国王・火炎・盗賊・水害・害心ある人々に似ていますから、多くの敵をつくります。

 解脱が存在するのに、なぜ、あなたは殺害や束縛がある諸々の欲望を求める要がありましょうか。人々は、思いがけなく、殺害されたり捕縛されたりする苦しみを受けます。

 火をつけられた草のタイマツは、それを持っている人を焼くが、それを放した人を焼きません。けだし、諸々の欲望はタイマツに譬えられます。諸々の欲望は、それを放さない人々を焼くのです。

 わずかな欲楽のために、大いなる安楽を捨てなさいますな。タシ魚が鉤を飲んで、あとで苦しむようなことをなさいますな。

 まず、どうか、諸々の欲望を制御なさい。(あなたは)鎖につながれた犬のようなものです。実に、諸々の欲望は、あなたを食いつくすでしょう。飢えたチャンダーラ(外賤民)どもが犬を食べるように。

 諸々の欲望に耽っているあなたは、限りのない苦しみと、多くの心の煩悩とを受けるでしょう。はかない欲楽を捨てなさい。

 不老(解脱)が存在するのに、なぜ、あなたは、老いるはずの諸々の欲望を求める要がありましょうか。すべての生れは、どこでも死と病いに捕らえられています。

 これは不老である。これは、不死である。これは老い死ぬことない境地である。憂い無きものである。敵なく、圧迫なく、過ちなく、恐怖なく、悩みがない。

 この不死〔の境地〕は、多くの人々が覚とったものである。そうして、今日でも、正しく専念する者は、これを得ることができます。しかしながら、努力しない人は、これを得ることができません」

 諸々のつくり出されたもののうちに楽しみが得られないので、スメーダーは、このように語った。アニカラッタ王をさとして、スメーダーは、自分の髪を地上に投げた。

 アニカラッタ王は立ち上がって、合掌して、彼女の父に懇願した、
「スメーダーを許して、出家させてください。彼女は解脱の真実を見る〔人となる〕でしょう」

 彼女は母と父との許しを得て、出家した。諸々の欲望のもたらす憂いと恐れにおののいて。〔そうして〕最高の結果としての境地を学ぶうちに、彼女は六種の神通を現に覚とった。

 素晴らしい。驚異である。──王女の得たその安らぎは。

彼女は〔幾多の前世のうちに〕最終時の前世における行いを、次のように説き明かした、
「尊き師コーナーガマナ〔仏陀〕が世に出られ、僧園において新しい住居におられたとき、私たち三人の女友達は、精舎の奉施を行いました。
〔その報いとして、〕私たちは、十たび、百たび、一千たび、一万たびも、神々のあいだに生まれました。
 いわんや、人間のうちに生まれたことは、なおさらです。

 神々のあいだにおいて、私たちは、大神力を具えていました。いわんや人間のうちに〔生まれたとき〕には、なおさらでした。
 私は、七の宝をもつ〔転輪聖王の〕王妃であって、〔この王の〕〈宝としての女人〉でありました。」

 それが原因である。それが根源である。それが根本である。それが教えを静かに受けて知ることである。
 それが最初の帰趨である。それが真理を楽しむ者の安らぎである。
 無上の智慧ある人(仏陀)の言葉を信ずる人々は、このように語る。

 彼らは、迷いの生存を厭うて、汚れを離れる。

テーリーガーター





  二の利得

 たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている。

「比丘たちよ、功徳を恐れてはならない。
 比丘たちよ、功徳は安楽の同義語であり、人の願うものの、欲するものの、愛するものの、快いものの同義語である。

 すなわち、比丘たちよ、長い間にわたって功徳を積めば、長い間にわたって願わしい、欲する、愛する、快いその果報を受けることを、私は知っている。

 私は、七年間慈しみの心を修練したのち、その果報により世界が七度びまで崩壊と生成を繰り返す間は、実に光音天にいたのである。

 また世界が生成している間は、まだ住する天神もない空虚な梵天宮に生まれていたのである。

 比丘たちよ、実にそこにおける私は、梵天であり、大梵天であり、征服者であり、征服されることのない者であり、すべてを見る者であり、最高の権威を持つ者であった。

 そして、比丘たちよ、私は三十六回も、諸天の帝王である帝釈天であった。

 私は数百回も、正義に従う正義の王であり、四方に威をふるう征服者であり、統治下の国々をよく治めていた。
 七種の宝を持つ転輪聖王であった。地方の小国に威光を及ぼしたことは、いうまでもない。

 比丘たちよ、それについて私に次のような思いが生じた、
”私がいまこのように大神力があり、大威力があるのは、私のいかなる行いの結果であるのか。
 いかなる行いの果報であるのか”と。

 比丘たちよ、それについて私に次のような思いが生じた、
”私がいまこのように大神力があり、大威力があるのは、私の三の行いの結果である。

 三の行いの果報である。
 すなわち、施しと自制と禁欲との結果である”と」

このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた、

「彼は未来の安楽のもとになる功徳を学ぶべきである。

 施しと、平静なふるまいと、慈しみの心とを修練するべきである。

 安楽を生ずるもととなるこれら三の事柄を修練して、賢い人は、憎悪の思いがない安楽な世界に生まれる」

 このことを世尊が説かれた、と私は聞いている。

イティヴッタカ





【禍いをつくり出す者は”私は悪い行いをなした”と思って後悔する。それ故に悪は増大しません。
 しかし、福をつくり出す者は後悔することがない】



  功徳の増大による救い

王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、(善を行った果報としての)福と、(悪を行なった果報としての)禍いとでは、どちらが大きいですか」

尊者ナーガセーナは答えた、
「大王よ、福がより大きく、禍いは小です」

「何故ですか」

「大王よ、禍いをつくり出す者は”私は悪い行いをなした”と思って後悔する。それ故に悪は増大しません。

 大王よ、(しかし、)福をつくり出す者は後悔することがない。

 後悔することのない者には愉悦が生じる。愉悦の生ずる者には喜びが生ずる。
 心の喜べる者は、身体が安らかである。身体が安らかである者は、安楽を感受する。
 安楽なる者は、心が統一する。心の統一した人は如実に理解する。
 この理由によりて福が増大します。

 大王よ、(罪を犯し、刑を受けて)手足を切断された人でも、
 一束の蓮華を尊き師(仏陀)に捧げたならば、九十一劫の間、(地獄などのごとき)堕処に赴くことがありません。

 大王よ、この理由によりて、わたくしは『福はより大であり、禍いは小である』と語るのです」

「もっともです、尊者ナーガセーナよ」

ミリンダ王の問い





【善く屋宅を与えたならば、一切を与えた者というべく、善く法を教える者は、不死を与える者である】


  何を与えて

 かように私は聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました。
 その時、一人の天神が、夜もすでにふけたころ、その勝れたる光をもって、くまなくジェータ林を照らしながら、
 世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。

傍らに坐したその天神は、世尊の御許において、頌を説いて言った、

「何を与えたならば、力を与得るのですか

 何を与えたならば、美貌を与得るのですか。

 何を与えたならば、安楽を与得るのですか。

 何を与えたならば、浄眼を与得るのですか。

 何を与えたならば、一切を与得るのですか。

 願わくは、我がために説きたまわんことを」


その時、世尊は、頌を説いて仰せられた、

「飲食を与えたならば、力を与え、

 衣服を与えたならば、美貌を与え、

 車乗を与えたならば、安楽を与え、

 燈明を与えたならば、浄眼を与え、

 善く屋宅を与えたならば、一切を与えた者というべく、

 善く法を教える者は、不死を与える者である」


その時、かの天神は、また頌を説いて言った、

「まこと久々にしてわれ見たり。

 いかなるものにも依らず求めず、世の執著を超え来たりて、彼岸に到れるバラモンを」

 かくて、かの天神は、世尊の説きたもうところを聞いて歓喜し、世尊を礼拝すると、その場から姿を消した。


サンユッタ・ニカーヤ