更訂 H28.12.11



  守護の縁によりて生じる、争い等の多くの悪しき不善の事柄に関して



 この守護の縁によりて生じる縁起の教えは、世の中の多くの争い等の、悪しき不善の事柄が生じてしまう縁起を理解できる教えです。

 また、この縁起の教えは、各々の欲する事物を当てはめて見ることもできます。

 たとえば、あなたの欲する事物を当てはめて見ることもできます。

 そのように、あなたの欲する事物をあてはめて見ると、原因・条件と、その原因・条件により生起するもの・結果が、自心ででも理解できるでしょう。



 例えば、(権力・金銭)という事物で考えてみるとすると、

[受](権力・金銭)というものに関する快楽を見聞きして感受する。

   その感受の縁によりて、「私は(権力・金銭)が欲しい」という渇愛があり、
[愛]「私は(権力・金銭)が欲しい」という渇愛の縁によりて、

  「私は(権力・金銭)の快楽が欲しいので手に入れよう」と求めることがあり、
[求]「私は(権力・金銭)の快楽が欲しいので手に入れよう」と求めることの縁によりて、

  「私は(権力・金銭)を手に入れた」という獲得があり、
[利]「私は(権力・金銭)を手に入れた」という獲得の縁によりて、

  「私は(権力・金銭)をこのように用いる」という判断があり、
[用]「私は(権力・金銭)をこのように用いる」という判断の縁によりて、

   「私は(権力・金銭)を欲するままに用いている」という対象の欲を貪ることがあり、
[欲貪]「私は(権力・金銭)を欲するままに用いている」という対象の欲を貪ることの縁によりて、

      「私は(権力・金銭)を用いていたい」という愛着があり、
[愛着(執著)]「私は(権力・金銭)を用いていたい」という愛着の縁によりて、

     「私は、私の愛着する(権力・金銭)を、これからも私のものとして用い続けよう」という(堅固な)所有があり、
[嫉(所有)]「私は、私の愛着する(権力・金銭)を、これからも私のものとして用い続けよう」という(堅固な)所有の縁によりて

     「私は、私の愛着する(権力・金銭)を手放したくはない」と惜しむことがあり、
[守(嫉妬)]「私は、私の愛着する(権力・金銭)を手放したくはない」と惜しむことの縁によりて、

     「私は、私の愛着する(権力・金銭)を護る」・「私の愛着する(権力・金銭)は、私以外の何人も侵してはならない]
      という守護[保持・保護・保身]があり、
[護(守る)]「私は、私の愛着する(権力・金銭)を護る」・「私の愛着する(権力・金銭)は、私以外の何人も侵してはならない]
      という守護[保持・保護・保身](の結果)として、

      棒や剣を手に取ること・紛争・不和・口論・争論・中傷・虚言などの、多くの悪しき不善の事柄が生じるのである。



 このように、仏陀の理法・教えを学ぶ、ということによりて、自らの執着というものが根源的に理解されていきます。

 自らの心の執着というものを見る。
 たとえば、この教えにあてはめて、あなた自らの、自尊心というものを、見てみるとどうでしょうか。
 プライドというもの。また、そのプライドというものが全くなければどうであるのか、と。

 仏陀と聖者方の真理の教え、また、神・神々の清浄な教えを見たことのない人にとりて、
 仏陀の理法・教えによりて、その、自らの執着というものを根源的に理解していく、という理解と学びについて、
 どうして、このような事柄を学ぶのだろうか、と何故なのか見当も付かない、という人も中にはいることでしょう。

 では、このように理法の教えを学んで、自らの執着を根源的に理解していくのは、なぜであるのか。


 仏陀はなぜ、このような教えを説かれたのか。

 すなわち、

 『それは、目的にかない、清らかな修行の基礎となり、世俗を厭いはなれること、

  欲情を捨てること、煩悩を制止することに役立ち、

  心の平安、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃の獲得に役立つからである』と。





  大いなる縁起の教え

 このように私は聞いた。

 あるとき、世尊はクル国に滞在され、カンマーサダンマというクル国の町におられた。

 そのとき、アーナンダ尊者は、世尊のおられるところに赴いて、世尊に礼拝し、一方に坐った。

一方に坐ったアーナンダ尊者は、世尊に問いて言った、

「甚だめずらしく、きわめて優れています。
 世尊の説くところの縁起の理法の光明は甚深にして解し難いです。

 しかし、私たちが意を以って観ずれば、目前にあるように明らかなことのように思われます。」

「アーナンダよ、そのように語ってはならない。アーナンダよ、そのように語ってはならない。

 アーナンダよ、この縁起の理法の光明は甚深であり、甚深にして解し難い。

 アーナンダよ、人々は、この縁起の理法を理解せず、洞察せず見えないために、糸がもつれて絡みあうように、紐がもつれて絡みあうように、ムンジャ草やバッバジャ草が(もつれて絡みあう)ように、苦しみの世界・悪いところ(悪趣)や、破滅的世界(地獄)の、輪廻を脱れることができないのである。


 アーナンダよ、私は汝に語ろう。

アーナンダよ、もしも人ありて、
『定まれる条件(縁)によりて、老い死ぬこと[老死]があるのですか』と問われたならば、『そうです』と答えるべきである。

 また、『何の条件(縁)によりて、老い死ぬことがあるのですか』と問うならば、

『生まれること[生]の縁によりて、老い死ぬこと[老死]がある』と答えるべきである。


アーナンダよ、もしも人ありて、
『定まれる条件(縁)によりて、生まれること[生]があるのですか』と問われたならば、『そうです』と答えるべきである。

 また、『何の条件(縁)によりて、生まれることがあるのですか』と問うならば、

『生存[有]の縁によりて、生まれること[生]がある』と答えるべきである。


アーナンダよ、もしも人ありて、
『定まれる条件(縁)によりて、生存[有]があるのですか』と問われたならば、『そうです』と答えるべきである。

 また、『何の条件(縁)によりて、生存があるのですか』と問うならば、

『執着[取]の縁によりて、生存[有]がある』と答えるべきである。


アーナンダよ、もしも人ありて、
『定まれる条件(縁)によりて、執着[取]があるのですか』と問われたならば、『そうです』と答えるべきである。

 また、『何の条件(縁)によりて、執着があるのですか』と問うならば、

『渇愛[愛]の縁によりて、執着[取]がある』と答えるべきである。


アーナンダよ、もしも人ありて、
『定まれる条件(縁)によりて、渇愛(喉が渇いて水を求めるような、本能的な欲望)があるのですか』と問われたならば、『そうです』と答えるべきである。

 また、『何の条件(縁)によりて、渇愛があるのですか』と問うならば、

『感受[受]の縁によりて、渇愛[愛]がある』と答えるべきである。


アーナンダよ、もしも人ありて、
『定まれる条件(縁)によりて、感受[受]があるのですか』と問われたならば、『そうです』と答えるべきである。

 また、『何の条件(縁)によりて、感受があるのですか』と問うならば、

『接触[触]の縁によりて、感受[受]がある』と答えるべきである。


アーナンダよ、もしも人ありて、
『定まれる条件(縁)によりて、接触[触]があるのですか』と問われたならば、『そうです』と答えるべきである。

 また、『何の条件(縁)によりて、接触があるのですか』と問うならば、

『名称と形態[名色]の縁によりて、接触[触]がある』と答えるべきである。


アーナンダよ、もしも人ありて、
『定まれる条件(縁)によりて、名称と形態[名色]があるのですか』と問われたならば、『そうです』と答えるべきである。

また、『何の条件(縁)によりて、名称と形態があるのですか』と問うならば、

『識別作用[識]の縁によりて、名称と形態[名色]がある』と答えるべきである。


アーナンダよ、もしも人ありて、
『定まれる条件(縁)によりて、識別作用[識]があるのですか』と問われたならば、『そうです』と答えるべきである。

また、『何の条件(縁)によりて、識別作用があるのですか』と問うならば、

『名称と形態[名色]の縁によりて、識別作用[識]がある』と答えるべきである。


アーナンダよ、このように、

 名称と形態[名色]の縁によりて、識別作用があり、

 識別作用[識]の縁によりて、名称と形態がある。

 名称と形態[名色]の縁によりて、接触があり、

 接触[触]の縁によりて、感受があり、

 感受[受]の縁によりて、渇愛があり、

 渇愛[愛]の縁によりて、執着があり、

 執着[取]の縁によりて、生存があり、

 生存[有]の縁によりて、出生があり、

 出生[生]の縁によりて、老い死ぬこと[老死]があり、

 憂い・悲しみ・痛み・悩み・悶えの苦しみが生じる。

 このようにして、このすべての苦しみの集まりが起こるのである。


『出生[生]の縁によりて、老い死ぬこと[老死]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、生まれることの縁によりて、老い死ぬことがあるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるいきものに、ありとあらゆるところで、生まれることがまったく完全になかったとしたならば、すなわち、神々が神の状態に、ガンダッバたちがガンダッバの状態に、夜叉たちが夜叉の状態に、精霊たちが精霊の状態に、人間たちが人間の状態に、四足動物たちが四足動物の状態に、鳥たちが鳥の状態に、這う生き物たちが這う生き物たちの状態に、生きとし生けるものが、それぞれそのような状態に生まれることがなかったとしたならば、

 まったく生まれることがないとき、生まれることが滅しているのに、老いと死ぬことが認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、生まれるということこそが、老い死ぬことの原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『生存[有]の縁によりて、出生[生]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、生存の縁によりて、生まれることがあるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、生存がまったく完全になかったとしたならば、すなわち、欲望に満ちた世界における生存(欲有)や、清らかな物質のある世界における生存(色有)や、物質のない精神的世界における生存(無色有)が、なかったとしたならば、

 まったく生存がないとき、生存が滅しているのに、生まれることが認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、生存こそが、生まれることの原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『執着[取]の縁によりて、生存[有]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、執着の縁によりて、生存があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、執着がまったく完全になかったとしたならば、すなわち、欲望の対象に対する執着(欲取)や、誤った見解に対する執着(見取)や、誤った戒め・誓いに対する執着(戒禁取)や、実体なき自我に対する執着(我語取)が、なかったとしたならば、

 まったく執着がないとき、執着が滅しているのに、生存が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、執着が、生存の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『渇愛[愛]の縁によりて、執着[取]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、渇愛[喉が渇いて水を求めるような、本能的な欲望]の縁によりて、執着があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、渇愛[喉が渇いて水を求めるような、本能的な欲望]がまったく完全になかったとしたならば、すなわち、色形に対する渇愛(色愛)、音声に対する渇愛(声愛)、香りに対する渇愛(香愛)、味に対する渇愛(味愛)、感触に対する渇愛(触愛)、思考の対象に対する渇愛(法愛)がなかったとしたならば、

 まったく渇愛がないとき、渇愛が滅しているのに、執着が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、渇愛が、執着の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『感受[受]の縁によりて、渇愛[愛]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、感受の縁によりて、渇愛があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、感受がまったく完全になかったとしたならば、すなわち、眼と対象との接触から生ずる感受、耳と対象との接触から生ずる感受、鼻と対象との接触から生ずる感受、舌と対象との接触から生ずる感受、身体と対象との接触から生ずる感受、意と対象との接触から生ずる感受がなかったとしたならば、
まったく感受がないとき、感受が滅しているのに、渇愛が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、感受が、渇愛の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


 アーナンダよ、このように、

 感受[受]の縁によりて、渇愛があり、

 渇愛[愛]の縁によりて、求めること[求]があり、

 求めること[求]の縁によりて、獲得[利]があり、

 獲得[利]の縁によりて、判断[用](用方)があり、

 判断[用](用方)の縁によりて、対象の欲を貪ること[欲貪](使用)があり、

 対象の欲を貪ること[欲貪](使用)の縁によりて、愛着[執着]があり、

 愛着[執着]の縁によりて、所有(し続けたいこと)[嫉]があり、

 所有(し続けたい)[嫉]によりて、惜しむこと[守(嫉妬)]があり、

 惜しむこと[守(嫉妬)]の縁によりて、守護[護]があり、

 守護[護](の結果)として、棒や剣を手に取ること・紛争・不和・口論・争論・中傷・虚言などの、多くの悪しき不善の事柄が生じるのである。


『守護[護](の結果)として、棒や剣を手に取ること・紛争・不和・口論・争論・中傷・虚言などの、多くの悪しき不善の事柄が生じる』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、守護[保持・保護・保身]の結果として、棒や剣を手に取ること・紛争・不和・口論・争論・中傷・虚言などの、多くの悪しき不善の事柄が生じるのかということは、このように知られる。

 アーナンダよ、もしもありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、(所有の)守護[保持・保護・保身]がまったく完全になかったとしたならば、まったく、(所有の)守護[保持・保護・保身]がないとき、(所有の)守護[保持・保護・保身]が滅しているのに、棒や剣を手に取ること・紛争・不和・口論・争論・中傷・虚言などの、多くの悪しき不善の事柄が生じるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、(所有の)守護[保持・保護・保身]が、棒や剣を手に取ること・紛争・不和・口論・争論・中傷・虚言などの、多くの悪しき不善の事柄が生じる原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『惜しむこと[守(嫉妬)]の縁によりて、守護[護]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、(失いたくないと)惜しむことの縁によりて、守護[保持・保護・保身]があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、(失いたくないと)惜しむことがまったく完全になかったとしたならば、まったく(失いたくないと)惜しむことがないとき、(失いたくないと)惜しむことが滅しているのに、守護[保持・保護・保身]が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、(失いたくないと)惜しむことが、守護[保持・保護・保身]の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『所有[嫉]の縁によりて、惜しむこと[守(嫉妬)]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、(自らのものとして)所有すること(・所有し続けたいこと)の縁によりて、(失いたくないと)惜しむことがあるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、(自らのものとして)所有すること(・所有し続けたいこと)が、まったく完全になかったとしたならば、まったく(自らのものとして)所有すること(・所有し続けたいこと)がないとき、(自らのものとして)所有すること(・所有し続けたいこと)が滅しているのに、(失いたくないと)惜しむことが認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、(自らのものとして)所有すること(・所有し続けたいこと)が、(失いたくないと)惜しむことの原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『愛着[執着]の縁によりて、所有[嫉]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、愛着[執着]の縁によりて、(自らのものとして)所有する(・所有し続けたい)のかということは、このように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、愛着[執着]がまったく完全になかったとしたならば、まったく愛着がないとき、愛着[執着]が滅しているのに、(自らのものとして)所有すること(・所有し続けたいこと)が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、愛着が、(自らのものとして)所有すること(・所有し続けたいこと)の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。すわなち、愛着である。


『対象の欲を貪ること(使用)[欲貪]の縁によりて、愛着[執着]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、対象の欲を貪ることの縁によりて、愛着があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、対象の欲を貪ること(使用)がまったく完全になかったとしたならば、まったく対象の欲を貪ること(使用)がないとき、対象の欲を貪ることが滅しているのに、愛着[執着]が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、対象の欲を貪ることが、愛着[執着]の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『判断(分別・断定)[用]の縁によりて、対象の欲を貪ること(使用)[欲貪]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、判断(分別・断定・用方)の縁によりて、対象の欲を貪ることがあるのか、ということはこのように知られる。
 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、判断(分別・断定)がまったく完全になかったとしたならば、まったく判断(分別・断定・用方)がないとき、判断(分別・断定・用方)が滅しているのに、対象の欲を貪ること(使用)が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、判断(分別・断定)が、対象の欲を貪ることの原因であり、起源であり、起因であり、条件である。」


『獲得[利]の縁によりて、判断(分別・断定・用方)[用]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、獲得の縁によりて、判断(分別・断定・用方)があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、獲得がまったく完全になかったとしたならば、まったく獲得がないとき、獲得が滅しているのに、判断(分別・断定・用方)が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、獲得が、判断(分別・断定)の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『求めること[求]の縁によりて、獲得[利]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、(対象のものを)求めることの縁によりて、獲得があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、(対象のものを)求めることがまったく完全になかったとしたならば、まったく(対象のものを)求めることがないとき、(対象のものを)求めることが滅しているのに、獲得が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、求めることが、獲得の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『渇愛[愛]の縁によりて、求めること[求]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、渇愛の縁によりて、(対象のものを)求めることがあるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、渇愛[喉が渇いて水を求めるような、本能的な欲望]がまったく完全になかったとしたならば、すなわち、感覚的欲望への渇愛(欲愛)や、生存への渇愛(有愛)、生存の断滅への渇愛(無有愛)がなかったとしたならば、まったく渇愛がないとき、渇愛が滅しているのに、求めることが認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、渇愛が、求めることの原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


 アーナンダよ、このように、渇愛に関する二類の法があるが、二類の法は、感受において、一つに結合しているのである。


『接触[触]の縁によりて、感受[受]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、接触の縁によりて、感受があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、ありとあらゆるものに、ありとあらゆるところで、接触がまったく完全になかったとしたならば、
眼と色よる接触(眼触)や、耳と音声よる接触(耳触)や、鼻と香りによる接触(鼻触)や、舌と味による接触(舌触)や、身体と触る対象による接触(身触)や、意とその対象による接触(意触)がなかったとしたならば、まったく接触がないとき、接触が滅しているのに、感受が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、接触が、感受の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『名称と形態[名色]の縁によりて、接触[触]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、名称と形態の縁によりて、接触があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、諸々の様相[標識、規定、特徴]によりて、名称[名目の総体]が表示されるのであるが、そのような、名称[名目の総体]がないとき、名称と意による接触が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「また、アーナンダよ、諸々の様相[標識、規定、特徴]によりて、形態[形あるものの総体]が表示されるのであるが、そのような、形態がないとき、形態と五官による接触が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「また、アーナンダよ、諸々の様相[標識、規定、特徴]によりて、名称[名目の総体]と形態[形あるものの総体]が表示されるのであるが、そのような様相[標識、規定、特徴]がないとき、名称や形態の接触が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「また、アーナンダよ、諸々の様相[標識、規定、特徴]によりて、名称と形態が表示されるのであるが、そのような様相[標識、規定、特徴]がないとき、接触が認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、名称と形態が、接触の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『識別作用[識]の縁によりて、名称と形態[名色]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、識別作用の縁によりて、名称と形態があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも識別作用が母胎に入らなかったとしたならば、名称と形態が母胎のなかで結生するであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、もしも、識別作用が母胎に入ってから、抜け出てたならば、嬰児の名称と形態は発育するだろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、もしも、識別作用が、若い少年や少女から絶たれたならば、名称と形態が成長し、発育し、成熟することになるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、識別作用[識]こそが、名称と形態[名色]の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。


『名称と形態[名色]の縁によりて、識別作用[識]がある』と、このように述べたが、
 アーナンダよ、どうして、名称と形態の縁によりて、識別作用があるのか、ということはこのように知られる。

 アーナンダよ、もしも、識別作用が名称と形態において、足場を得ることができなかったとしたならば、未来に、生まれることや、老い死ぬことという、苦しみの集まりの生起することが認識されうるであろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、したがって、名称と形態こそが、識別作用の原因であり、起源であり、起因であり、条件である。

 アーナンダよ、実に、人が生まれ、あるいは老い、あるいは死に、あるいは没し、あるいは再生するであろう限り、また、名目がある限り、言語の道がある限り、言語設定の道がある限り、言葉による表示の道がある限り、輪廻流転してこのような生存状態にある限り、名称と形態[名色]は識別作用[識]と共にあるのである。



 アーナンダよ、次に、アートマン[我]という見解をもっている人は、それぞれどのように説くのであるか。

 アーナンダよ、実に『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解をもっている人は、
 『私の[我]は、形態があり、限りのあるものである』と説く。

 あるいは、『[我]は形態があり、無限である』という見解をもっている人は、
 『私の[我]は形態があり、無限である』と説く。

 あるいは、『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解をもっている人は、
 『私の[我]は形態が無く、限りのあるものである』と説く。

 あるいは、『[我]は形態が無く、無限である』という見解をもっている人は、
 『私の[我]は形態が無く、無限である』と説く。


 アーナンダよ、『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解をもって説く人は、
 現世においても、『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解をもって説き、
 あるいは来世においても、『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解をもって説く。
 あるいはまた、彼はこのように考える、『もし[我]がこれと異なっているならば、そのような状態に合わせよう』と。

 アーナンダよ、このようであるならば、彼が『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解に執している、というのは適当である。

 アーナンダよ、『[我]は形態があり、無限である』という見解をもって説く人は、
 現世においても『[我]は形態があり、無限である』という見解をもって説き、
 あるいは来世においても、『[我]は形態があり、無限である』という見解をもって説く。
 あるいはまた、彼はこのように考える、『もし[我]がこれと異なっているならば、そのような状態に合わせよう』と。

 アーナンダよ、このようであるならば、彼が『[我]は形態があり、無限である』という見解に執している、というのは適当である。

 アーナンダよ、『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解をもって説く人は、
 現世においても『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解をもって説き、
 あるいは来世においても『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解をもって説く。
 あるいはまた、彼はこのように考える、『もし[我]がこれと異なっているならば、そのような状態に合わせよう』と。

 アーナンダよ、このようであるならば、彼が『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解に執している、というのは適当である。

 アーナンダよ、『[我]は形態が無く、無限である』という見解をもって説く人は、
 現世においても『[我]は形態が無く、無限であると』認知して説き、
 あるいは来世においても『[我]は形態が無く、無限である』という見解をもって説く。
 あるいはまた、彼はこのように考える、『もし[我]がこれと異なっているならば、そのような状態に合わせよう』と。

 アーナンダよ、このようであるならば、彼が『[我]は形態が無く、無限である』という見解に執している、というのは適当である。

 アーナンダよ、実に、アートマン[我]という見解をもっている人は、それぞれこのように説くのである。



 アーナンダよ、次に、アートマン[我]という見解をもっていない人は、それぞれどのようなことで説かないのであるか。

 アーナンダよ、実に、『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解をもっていない人は、
 『私の[我]は、形態があり、限りのあるものである』と説かない。

 あるいは『[我]は形態があり、無限である』という見解をもっていない人は、
 『私の[我]は形態があり、無限である』と説かない。

 あるいは『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解をもっていない人は、
 『私の[我]は形態が無く、限りのあるものである』と説かない。

 あるいは『[我]は形態が無く、無限である』という見解をもっていない人は、
 『私の[我]は形態が無く、無限である』と説かない。


 アーナンダよ、『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解をもたず、そのように説かない人は、
 現世においても『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解をもたず、そのように説かない。
 あるいは来世においても『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解をもたず、そのように説かない。
 あるいはまた、彼はこのように考えない、『もし[我]がこれと異なっているならば、そのような状態に合わせよう』と。

 アーナンダよ、このようであるならば、彼は『[我]は形態があり、限りのあるものである』という見解に執していない、というのは適当である。

 アーナンダよ、『[我]は形態があり、無限である』という見解をもたず、そのように説かない人は、
 現世においても『[我]は形態があり、無限である』という見解をもたず、そのように説かない。
 あるいは来世においても『[我]は形態があり、無限である』という見解をもたず、そのように説かない。
 あるいはまた、彼はこのように考えない、『もし[我]がこれと異なっているならば、そのような状態に合わせよう』と。

 アーナンダよ、このようであるならば、彼は『[我]は形態があり、無限である』という見解に執していない、というのは適当である。

 アーナンダよ、『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解をもたず、そのように説かない人は、
 現世においても『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解をもたず、そのように説かない。
 あるいは来世においても『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解をもたず、そのように説かない。
 あるいはまた、彼はこのように考えない、『もし[我]がこれと異なっているならば、そのような状態に合わせよう』と。

 アーナンダよ、このようであるならば、彼は『[我]は形態が無く、限りのあるものである』という見解に執していない、というのは適当である。

 アーナンダよ、『[我]は形態が無く、無限である』という見解をもたず、そのように説かない人は、
 現世においても『[我]は形態が無く、無限である』という見解をもたず、そのように説かない、
 あるいは来世においても『[我]は形態が無く、無限である』という見解をもたず、そのように説かない。
 あるいはまた、彼はこのように考えない、『もし[我]がこれと異なっているならば、そのような状態に合わせよう』と。

 アーナンダよ、このようであるならば、彼は『[我]は形態が無く、無限である』という見解に執していない、というのは適当である。

 アーナンダよ、実に、アートマン[我]という見解をもっていない人は、それぞれこのようにして説かないのである。



 アーナンダよ、次に、アートマン[我]を観察している人は、それぞれどのように観察するのであるか。

 アーナンダよ、実に、アートマン[我]を感受において観察するのである。
 すなわち、『感受が私の[我]である』、
 あるいは、『感受は私の[我]ではない。感受することのできないものが私の[我]である』と、
 アーナンダよ、このように[我]を観察するのである。

 あるいはまた、『感受は私の[我]ではない。[我]は感受することのできないものでもない。
 [我]は私によりて感受されるもので、すなわち、感受する性質こそが私の[我]である』と、
 アーナンダよ、このように[我]を観察するのである。


 アーナンダよ、この中で『感受が私の[我]である』と言う人に対しては、このように言うがよい。

『友よ、感受は、楽しい感受、苦しい感受、苦しくも楽しくもない感受という三種類があります。
 あなたはこれら三つの感受の中、いずれを[我]であると見るのですか』と。


 アーナンダよ、人が楽しい感受を感じるときは、同時に、苦しい感受や、苦しくも楽しくもない感受を感ぜず、
 そのときは、ただ楽しい感受のみを感じる。

 アーナンダよ、人が苦しい感受を感じるときは、同時に、楽しい感受や、苦しくも楽しくもない感受を感ぜず、
 そのときは、ただ苦しい感受のみを感じる。

 アーナンダよ、人が苦しくも楽しくもない感受を感じるときは、同時に、楽しい感受や、苦しい感受を感ぜず、
 そのときは、ただ苦しくも楽しくもない感受のみを感じる。


 アーナンダよ、楽しい感受は無常なものであり、形成されたものであり、縁起の法にして、壊滅する性質のものであり、衰滅する性質のものであり、離欲の性質のものであり、消滅する性質のものである。

 アーナンダよ、苦しい感受は無常なものであり、形成されたものであり、縁起の法にして、壊滅する性質のものであり、衰滅する性質のものであり、離欲の性質のものであり、消滅する性質のものである。

 アーナンダよ、苦しくも楽しくもない感受は無常なものであり、形成されたものであり、縁起の法にして、壊滅する性質のものであり、衰滅する性質のものであり、離欲の性質のものであり、消滅する性質のものである。


 楽しい感受を感じている人が『これは私の[我]である』と考え、
 その楽しい感受が滅したならば『私の[我]は消滅した』と考える。

 苦しい感受を感じている人が『これは私の[我]である』と考え、
 その苦しい感受が滅したならば『私の[我]は消滅した』と考える。

 苦しくも楽しくもない感受を感じている人が『これは私の[我]である』と考え、
 その苦しくも楽しくもない感受が滅したならば『私の[我]は消滅した』と考える。


 このように『感受が私の[我]である』と言う人は、現に理法で道理としても理解される、無常で、苦・楽と共に生滅する性質のものを、『(これは私の)[我]である』と観察するということになるのである。

 したがって、アーナンダよ、ここに、『感受が私の[我]である』と観察することは、これによりて出来ることではない。


 アーナンダよ、また、この中で『感受は私の[我]ではない。感受することのできないものが私の[我]である』と言う人に対しては、このように言うがよい、

『友よ、一切の感受がまったくないところに、〈我あり〉という思いはありえるだろうか』と」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「したがって、アーナンダよ、ここに、『感受は私の[我]ではない。感受することのできないものが私の[我]である』と観察することは、これによりて出来ることではない。


 アーナンダよ、『感受は私の[我]ではない。感受することのできないものが私の[我]でもない。[我]は私によりて感受されるもので、すなわち、感受する性質こそが私の[我]である』と言う人に対しては、このように言うがよい、

『友よ、一切の感受が完全に滅する時、一切の感受がないとき、感受が滅しているのに、そこに〈我あり〉という思いはありえるだろうか』と」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「したがって、アーナンダよ、ここに、『感受は私の[我]ではない。感受することのできないものが私の[我]でもない。
 [我]は私によりて感受されるもので、すなわち、感受する性質こそが私の[我]である』と観察することは、これによりて出来ることではない。


 アーナンダよ、このゆえに、比丘は『感受が私の[我]である』と観察せず、『感受することのできないものが[我]である』とも観察せず、『[我]は私によりて感受されるもので、すなわち、感受する性質こそが私の[我]である』とも観察しない。
 このようにして[我]を観じることがないならば、彼は、世において何ものにも執着しない。

 執着することがないので、怖畏しない。

怖畏しないないので、ただ独り完全な涅槃に入り、
『生まれうることはもうなくなった。清らかな生活は完成した。なすべきことはなし終えた。さらに、このような輪廻の生存を受けることはない』と知るのである。


 アーナンダよ、実に、このように心が解脱した比丘に対して、
『如来は死後に存在するか』と問う者があって、比丘はこの見解に執している、と言うならばそれは正しくない。

『如来は死後に存在しないか』と問う者があって、比丘はこの見解に執している、と言うならばそれは正しくない。

『如来は死後にも存在し、かつまた存在しないか』と問う者があって、比丘はこの見解に執している、と言うならばそれは正しくない。
『如来は死後に存在するのでもなく、存在しないのでもないか』と問う者があって、比丘はこの見解に執している、と言うならばそれは正しくない。

それは何故であるか。

 アーナンダよ、名目がある限り、名目の道がある限り、言語のある限り、言語の道がある限り、言語設定のある限り、言語設定の道がある限り、智慧のある限り、智慧の境界がある限り、輪廻流転する限り、その限りにおいて、比丘はこれを知りて解脱している。

 このように知りて解脱している比丘を、知らず、見えない(徒)であると執するのは正しくない。




 アーナンダよ、実に、これら七つの識別作用の安住する状態(七識住)がある。また、二の領域がある。

  七つとは何か。

 アーナンダよ、さまざまに異なった身体をもち、さまざまに異なった想いを抱く生きものたちがいる。
 たとえば、人間や、ある一部の神々や、ある一部の地獄に堕ちた者たちである。
 これが、識別作用の住する第一の状態である。

 アーナンダよ、さまざまに異なった身体をもち、同一の想いを抱く生きものたちがいる。
 たとえば、禅定の第一段階(初禅)を修めて生まれるブラフマカーイカ神たち(梵衆天)である。
 これが、識別作用の安住する第二の状態である。

 アーナンダよ、同一の身体をもち、さまざまに異なった想いを抱く生きものたちがいる。
 たとえば、アーバッサラ神たち(光音天)である。
 これが、識別作用の安住する第三の状態である。

 アーナンダよ、同一の身体をもち、同一の想いを抱く生きものたちがいる。
 たとえば、スバキンナ神たち(遍浄天)である。
 これが、識別作用の安住する第四の状態である。

 アーナンダよ、物質的形態の想いをまったく超越し、『空間は無限である』とする空間の無限性を観ずる禅定の境地(空無辺処)に達する生きものたちがいる。
 これが、識別作用の安住する第五の状態である。

 アーナンダよ、空間の無限性を観ずる禅定の境地(空無辺処)をまったく超越し、『識は無限である』とする識の無限性を観ずる禅定の境地(識無辺処)に達する生きものたちがいる。
 これが、識別作用の安住する第六の状態である。

 アーナンダよ、識の無限性を観ずる禅定の境地(識無辺処)をまったく超越し、『何ものもない』とする何ものもないと観ずる禅定の境地(無所有処)に達する生きものたちがいる。
 これが、識別作用の安住する第七の状態である。


 また、(二の領域とは、

 第一が)、想いのない生きものの領域(無想処)であり、

 第二が、想いがあるのでもなく、ないのでもない領域(非想非非想処)である。


 アーナンダよ、さまざまに異なった身体をもち、さまざまに異なった想いを抱く生きものたち、
 たとえば、人間や、ある一部の神々や、ある一部の地獄に堕ちた者たちが、識別作用の住する第一の状態であったが、
 実に、それを知り、その生起を知り、その消滅を知り、その味を知り、その患いを知り、それからの離脱を知る人は、それを大いに喜ぶことができるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、さまざまに異なった身体をもち、同一の想いを抱く生きものたち、
 たとえば、禅定の第一段階(初禅)を修めて生まれるブラフマカーイカ神たち(梵衆天)が、識別作用の安住する第二の状態であったが、実に、それを知り、その生起を知り、その消滅を知り、その味を知り、その患いを知り、それからの離脱を知る人は、それを大いに喜ぶことができるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、アーナンダよ、同一の身体をもち、さまざまに異なった想いを抱く生きものたち、
 たとえば、アーバッサラ神たち(光音天)が、識別作用の安住する第三の状態であったが、
 実に、それを知り、その生起を知り、その消滅を知り、その味を知り、その患いを知り、それからの離脱を知る人は、それを大いに喜ぶことができるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、同一の身体をもち、同一の想いを抱く生きものたち、
 たとえば、スバキンナ神たち(遍浄天)が、識別作用の安住する第四の状態であったが、
 実に、それを知り、その生起を知り、その消滅を知り、その味を知り、その患いを知り、それからの離脱を知る人は、それを大いに喜ぶことができるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」


「アーナンダよ、物質的形態の想いをまったく超越し、『空間は無限である』とする、空間の無限性を観ずる禅定の境地(空無辺処)に達する生きものたちが、識別作用の安住する第五の状態であったが、
 実に、それを知り、その生起を知り、その消滅を知り、その味を知り、その患いを知り、それからの離脱を知る人は、それを大いに喜ぶことができるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、空間の無限性を観ずる禅定の境地(空無辺処)をまったく超越し、『識は無限である』とする、識の無限性を観ずる禅定の境地(識無辺処)に達する生きものたちが、識別作用の安住する第六の状態であったが、
 実に、それを知り、その生起を知り、その消滅を知り、その味を知り、その患いを知り、それからの離脱を知る人は、それを大いに喜ぶことができるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、識の無限性を観ずる禅定の境地(識無辺処)をまったく超越し、『何ものもない』とする、何ものもないと観ずる禅定の境地(無所有処)に達する生きものたちが、識別作用の安住する第七の状態であったが、
 実に、それを知り、その生起を知り、その消滅を知り、その味を知り、その患いを知り、それからの離脱を知る人は、それを大いに喜ぶことができるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、かの想いのない生きものの領域に関して、
 実に、それを知り、その生起を知り、その消滅を知り、その味を知り、その患いを知り、それからの離脱を知る人は、それを大いに喜ぶことができるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、かの想いがあるのでもなく、想いがないのでもない領域に関して、
 実に、それを知り、その生起を知り、その消滅を知り、その味を知り、その患いを知り、それからの離脱を知る人は、それを大いに喜ぶことができるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「アーナンダよ、実に、比丘が、これら七つの識別作用の安住する状態と、二つの領域との生起と、消滅と、味と、患いと、離脱とを、ありのままに知って、執着を離れ、解脱しているならば、
 この比丘を、智慧によりて解脱している者(慧解脱)というのである。


 アーナンダよ、実に、解脱にこれら八つがある。

 八つとは何か。

 内面で物質的形態[色]の想いをもつ者が、外の諸々の物質的形態[色]において、不浄観を修して色における貪りを離れて入る。
 これが第一である。 [[身体は不浄である。]]

 内面で色想をもたない者が、不浄観を修して外部の諸々の色における貪りを離れて入る。
 これが第二の解脱である。

 色境の外に浄相を観じて煩悩を生じない。
 これが第三の解脱である。 

 障礙のある色想を滅して、『空間は無限である』とする、空間の無限性を観ずる禅定の境地を体得してすごす。
 これが第四の解脱である。

 空間の無限性を観ずる禅定の境地を成就して、『識は無限である』とする、識の無限性を観ずる禅定の境地を体得してすごす。 これが第五の解脱である。

 識の無限性を観ずる禅定の境地を成就して、『何ものもない』とする、何ものもないと観ずる禅定の境地を体得してすごす。
 これが第六の解脱である。

 何ものもないと観ずる禅定の境地を成就して、想いがあるのでもなく、ないのでもない禅定の境地を体得してすごす。
 これが第七の解脱である。

 想いがあるのでもなく、ないのでもない禅定の境地を成就して、想いと感受との滅尽(想受滅)の禅定の境地を体得してすごす。
 これが第八の解脱である。

 実にアーナンダよ、これら八つの解脱がある。


 アーナンダよ、実に、比丘がこれら八つの解脱に、自然な順序で入り、逆の順序でも入り、自然な順序と逆の順序とを続けて入り、そして、好きな領域で、好きな境地を、好きなだけの間、入りまた出る。

 諸々の汚れを消滅して、汚れのない、心の解脱(心解脱)・智慧による解脱(慧解脱)を、この現世においてみずから知り、覚り、体得してすごすのである。

 アーナンダよ、この比丘が、『両面から解脱した者』と言われるのである。

 そして、アーナンダよ、この両面からの解脱(倶解脱)よりもさらに高く、さらに勝れた両面からの解脱は他にはないのである」


 このように世尊は説かれた。アーナンダ尊者は感激して、世尊の説かれたことを歓喜して敬って受けた。
長部 大縁方便経




感受の生起 〈縁りておこること〉





















更訂 H28.2.19