さくら



H29年5月14日

 本日は、

 昨日見つけた、原作本の”うしおととら”を動画で見たところ、やはり面白い。(オープニングの歌は、他に選択できる歌はなかったのだろうか、とも思う。)

 霊的な世界の感じというか、そういう邪念・怨念の境界は、こういう”うしおととら”の霊的な世界観のような感じっぽい、というように、霊的知識のない人でも、そう思っていると、他で説かれる霊的な世界も理解はしやすいだろう。

 獣の槍で、九尾の狐を退治するという物語。

 世に起こる憑依現象も、概要は”うしおととら”の内容にあるような感じ。


 ちなみに、先に、

 うしおの行いについて、仏陀の教えでは、


 仏陀の教え

 慈しみについて (護呪 慈しみ)


 うしおのような人でも、道に遠くないけれども難しい。

 仏陀の説く、八正道がいかに難しい行い・業であるのか理解できるであろう。




 憑依現象は、昔では、聖書にも憑依されている人物の事柄は記されているが、

 昔でいえば、西洋で昔為されていた、魔女狩りというのでも、悪魔の憑依はあっただろう。

 魔女に悪魔・悪霊が憑依して、邪悪行を為させる、と。

 魔女狩りは、、本物もいただろうけれども、魔女でない者までもが、疑いをかけられて魔女として殺されてしまった、というように云われている。

 そもそも、魔女狩りは、魔女がどのような状態にいるのかというのも理解できていなければ、解決することも難しい。

 そもそもが、魔女に悪魔が取り憑いて、その魔女に取り憑いている悪魔が、その魔女自身を殺したならば、悪魔は消え失せるのか、といえば、そうでもなく、その根源を断たないと、解決にもならず、やり方としても正しくない。

 例えば、Aという魔女に悪魔が憑いていて、Aという魔女が魔女裁判にかかり、有罪となり、Aという魔女は殺されてしまうことになってしまいました、とする。

 そうすると、悪魔は、そこで”ウヒヒヒヒ”と言って、Aさんから離れて、近所に住むBさんという女性に憑きました。

 そして、Bさんは、その悪魔の影響により、心から悪魔による邪念に傾くようになり、その邪念を繰り返しているうちに、邪悪行に手を染めるようになり、Aさんと同様の魔術に手を染めるようになっていきました。

 というような感じ。

 悪魔というのは、そういうようにも人々を、邪悪道に導き、現象世界においても殺し、その者の死後の輪廻の世界においても破滅に至らせる。

 であるから、Aという魔女を殺しても、根本的な問題解決にもならない、と。

 しかし、ここで、Bさんに道徳観念があり、さらに、仏陀の道の八正道にいるのであるのならば、Bさんは、戒めに依りても、智慧によりても、悪魔を見ぬき・邪念を捨離する業を持つが故に、悪魔は、Bさんを邪悪道に導くことが非常に難しい。

 そして、悪霊の目的にもよるが、Bさんよりも、邪悪道に導くことが容易な者達が、他にたくさんいるのであれば、他の者に憑いていくことだろう。


 そして、悪魔というのは、その邪悪に導くだけでなく、その者を殺させようとも計らう。

 ゆえに、Aという魔女は悪魔に導かれて、その悪魔〔という意味は、悪魔・悪霊・殺す者・中傷する者を云う。〕も、他の者達に、Aというのは魔女だとして、洗脳・誘導して殺させるように計らうということも行う。

 例えば、悪魔に憑かれて、頭がおかしくなるというのも、悪魔の仕業だが、悪魔の憑依が取れて、その頭がおかしいといわれるような状態から、パッと直ったというようなの場合は、わかりやすい悪魔の憑依による現象であったということ。

 これも、聖書に理解しやすく記されている。


 また、これは、悪魔に憑かれて全ての人がそうなるのか、というと、そうではなく、例えば、仏陀や仏陀の弟子の聖者方の周りで、悪魔が隙をうかがっていたが、隙がなく、悪魔は仏陀から離れた、と。というような事柄からも知られる通りに、

 悪魔は、周囲を洗脳・誘導して、周囲からその人に対して、邪悪行により、妨害するということもできるが、

 その人自身が邪念を生じても、その邪念をも捨離するのであれば、悪魔はその人を邪悪道に誘導することはできない。

 ゆえに、仏陀や仏陀の弟子の聖者方は、悪魔や悪魔に洗脳された者達の邪悪行に恐怖心を起こすこともないので、悪魔はまったく太刀打ちすることができなかった、と。






H29年5月15日

 本日は、

 今日も、”うしおととら”の動画を見ていて、そして、感動。



 昔、原作本を全て読んでから、十五年以上経っているだろうか。

 うしおととらは、一番好きで何度も読んだ。(動画は省略されている箇所があり、原作本より内容はとても少ない(407話を39話でまとめている)が、感動する。)


 昔、うしおととらを何度も読み直していたが、その後、うしおととらを読んだ後に何故か、調子が悪いというか、具合が悪い感じになることがあり、あまり読まなくなった頃もあった。そして、その後、他の多くの本と一緒に古本屋に売った。

 なぜか、調子が悪い、具合が悪いという感じになっていたんだよ。

 現在、その事柄を考えるに、昔から怪しげな者達に狙われていたようなので、もしかしたら、狙われていて具合を悪くさせられていたのだろうか、とも考える。

 ちなみに、うしおととらが好きで、二十歳頃に旭川に行くという用事ができたときに、"カムイ コタン"の橋を見てきたこともある。(雪が積もっている季節に行き、見て”小さい”と思って、時間もなかったので、その橋を渡ることもなく帰った。)

 本物の"カムイ コタン"の橋は、本に記されている感じよりも、かなり小さい橋であった。


 ちなみに、"カムイ コタン"とは、私の手元にあるアイヌ(伝承本)で、

 アイヌ語で"カムイ コタン"、すなわち、”神の郷(村)”という意味である、と。

 アイヌで言えば、昔、他にも、アイヌ人の聖地と言われている山に行って、般若心経を唱えてきたことがある。

 あれは、掲示板の頃だったかな。

 なつかしい。


 昔、その事柄をミクシィにも記したが、詐欺士の一門由佳(天翔麒麟・キリン)が、その山には登ることができないと言っていたのを覚えている。

 他、一門由佳に関しては、何の話をしていたのかは忘れたが、私の家の事柄だったかを、「浄き山」と言っていたのを記憶している。

”一応、誉め言葉なのだろう”として、強く記憶に残っている。

 他、その一門由佳の話では、霊能力者で本物の人物は、宜保愛子さん、という話をしていて、そして、覚とりを得ている人は、‘塀の中の懲りない面々’の阿部譲二さんが覚とりを得ている、という事柄を言っていた。たしかニワシロウも一緒に言ってたな。

 そして、「ネットで阿部譲二さんの話を読んでみると良い」ということで、強くおすすめされたので、一応、阿部譲二さんのブログを少し読んだけれども、その事柄により、一門由佳とニワシロウが仏陀の説く覚とりをまったく理解できてはいない、という事柄だけははっきりとした。ということも昔あった。

 そういう事柄もあり、詐欺士のニワシロウと一門由佳の脅迫電話も、その電話の途中で半分相手にしてなかったな。

 ニワシロウと一門由佳は、電話で話しているときは、気持ちがわるくもなったが、”心底悪い者達ではないな”という感情をも生じたこともあり、しかし、その後、結果として詐欺士だった。



 感情の誘導というのは、TVやラジオでおなじみの邪悪行をしている能力者の者達や、また、魔術者・妖術者等の常套手段なので要注意。

 また、悪魔・悪霊も同じく、感情の誘導や、思想の誘導は、常套手段なので要注意。


 そして、そのテロの邪悪行をしている能力者の者達等は、感情の誘導や、思想の誘導を、他に為していると思いつつも、自らも悪魔・悪霊に、感情の誘導や、思想の誘導されている者達なので要注意。



 話は、戻して、アイヌ人に聖地と言われるその山は、修験の修行の地とも言われているが、普通の人でも、一時間位でも登れる山。

 般若心経は、自らの心の清浄をも含み、伝え教えるために唱えたもの。

 当時もまた、般若心経の意味を理解していない人も多いご時世なので、般若心経に正念を込めて唱えてきた。


 なつかしき思ひで。


”うしおととら”をもう一度全巻購入して読んでみようかな、とちょっと思う。






H29年5月16日

 本日は、

 今日も、”うしおととら”の動画を見て、そして、感動。


 人を助けるのは善い、と心から思う。


 昔も”うしおととら”の単行本を読んで、感動して泣いてた。


 このように善心が大きく育つがゆえに、昔に、悪しき存在に狙われて、”うしおととら”を読んだ後に何故か、調子が悪いというか、具合が悪い感じになり、あまり読まなくなるように仕向けられた、ということも考えられる。


 実際に、悪魔が、真理と善から、盲目の人々を遠ざけるかのように。



 他人を助けるという心の、このあたたかさ。

 この言葉で表すだけでは、他の人に伝わりがたい、この心が(実際に)とても心地好い。



 この心を持ちて、私たちは行き、清浄の花を受け取る。






H29年5月17日

 本日は、

 テロの邪悪行者達に、私が、たいしたことはない、ということで罵詈雑言された。

 うしおととらが、アニメだからということでも文句をつけたいらしい。

 テレビの女性が好きそうなドラマのラブストーリ等を見ていても、他人を助けたいという善心はほぼ生じることはない。

 しかし、”うしおととら”は漫画でありつつも、善心が生じるから読む機会があれば読むとよろしい。

 おすすめします。


 さきほど続きの動画を見ていたら言ってた、白面の者の原動力は「未知に対する恐怖」だと。


 同じように、テロの邪悪行者達の、真理に対する恐怖。仏陀・聖者の教えに対する恐怖。未知への恐怖は、悪魔や悪霊の原動力となる、と。


 動画は、39話しかないから、内容はとびとびだから、原作本を読んだ方が善い。

(ここ数日、日記に”うしおととら”を記していて、さらに、推しているので、霊的な知識は”うしおととら”から学んだのだろうか、と思われる人もいるかもしれないので、一応記しておきますが、憑依等の事柄を記すのに、”うしおととら”を参考に霊的な事柄の憑依等を考えたという記憶はないです。
 初歩的な霊的な知識を知るのに、知っておくと理解しやすいだろうということでも記していますが、”うしおととら”を薦めるのは、心の内に善心が生じるがゆえです。

 そして、自らが悪心を持つ側として、読むのではなく、うしおという主人公側の心において読むのです。
「死ね」だとか、「殺せ」、「殺す」だとかの邪悪行を行うサイコパス側・犯罪者側として読むということではないです。)


 邪悪行者達が、善心の人が増えるという事柄から”うしおととら”という話題から、離したいのだかどうだか。



 ひっくり返せば、潜在的にテロの邪悪行者達は、私が”たいしたことがある”と思っている、と。


 私がたいしたことがあっても、なくても、真理はかわることはない。


 善行者は、善趣へと赴き、

 悪行者は、悪趣へと赴く。


 テロの邪悪行者達は、何かあれば、あ〜だこ〜だと悪口ばかりをつけて、邪悪行を繰り返す。

 今日も同じく。


 善なる存在が離れるというのは、そのように、善性への導きからも離れるのである、と。


 彼らの見えうる思想や感情の範疇というのは、さらに小さくなりつつもあり、周りが見えず、清浄も善も見えなくなってきている。



 清浄も善も見えなくなってくる、

 邪道に堕ちているとは、そのようなものなのだ、と思い、

 善行者は邪悪行者と親しんではならない。





 テロの邪悪行者・殺人犯達が「つしまを好きな人を殺す」と、言って殺人宣言をしているので、みなさん注意をしてください。


 邪悪行者達は、このようにだいぶ離れて行っている、と。

『邪道に堕ちているとは、そのようなものなのだ、と思い、

 善行者は邪悪行者と親しんではならない』と。


 仏陀の善の教えから離れないようにするべし。



 そう、仏陀の弟子を殺すと同じように、仏陀と仏陀の弟子を信じる人を殺す、というような、邪悪な行いの者は、地獄へと生ずる悪業を自らに造作する。






H29年5月21日

 本日は、

 17日の日記の、

『(ここ数日、日記に”うしおととら”を記していて、さらに、推しているので、霊的な知識は”うしおととら”から学んだのだろうか、と思われる人もいるかもしれないので、一応記しておきますが、憑依等の事柄を記すのに、”うしおととら”を参考に霊的な事柄の憑依等を考えたという記憶はないです。
 初歩的な霊的な知識を知るのに、知っておくと理解しやすいだろうということでも記していますが、”うしおととら”を薦めるのは、心の内に善心が生じるがゆえです。

 そして、自らが悪心を持つ側として、読むのではなく、うしおという主人公側の心において読むのです。

「死ね」だとか、「殺せ」、「殺す」だとかの邪悪行を行うサイコパス側・犯罪者側として読むということではないです。)』より



 サイコパス側・サイコパスとは、

 サイコパス〈psychopath〉=精神病質・精神病質者をいう。

 精神病ではないが、正常との中間状態をいう。あるいは人格の正常からの変異、逸脱をいう。
 疾病による人格変化は含まれない。ドイツの精神医学者、K.シュナイダーの(1887〜1967)は、人格の平均基準からの逸脱を異常人格と規定し、そのなかで「その人格の異常性のために自ら悩むか、または社会が悩む」場合を精神病質と呼んだ。
 理論的にはこのような概念を想定することも可能であるが、実際の臨床場面では、診断ないし理解の困難な症例に安易にこの概念を用いる傾向もある。
 治療は精神療法ないし再教育が主となるが、その効果については悲観説と楽観説がある。
 いずれにせよ、精神病質なるものの概念の乱用は慎まなければならない。 (事典より)



「死ね」だとか、「殺せ」、「殺す」だとかの邪悪行を行うサイコパス側・犯罪者側の、邪悪行者は八正道から遠い。


「死ね」だとか、「殺せ」、「殺す」だとかの邪悪行を行うサイコパス側・犯罪者側の、邪悪行・邪悪行者を厭い離れる者は八正道から遠くない。





さくら