さくら
○プロフィール


      
  ○對馬 弘 Hiroshi Tsushima

  1980年生 男 B型

  日本 北海道 函館生まれ函館育ち
  Japan Hokkaidou Hakodate

  日本 北海道札幌市豊平区月寒東5条16丁目11-2朝日ハイツ に在住。







 〇Buddhaメーソンリーの掟

 
Buddhaメーソンの掟は、真理において、善趣に赴くことができるように、わたくし・對馬弘が創造しているものです。

 Buddhaメーソンメンバーは、八聖道・八正道 を行く。


 〇寄付頁




 普通の人は普通が一番良いと思います。
 普通に生活できる事は幸せです。

(住所は、札幌に移転しました。)



 ○掲示板に記している、禅定中に眉間に入ってきた光は光輝く白。

 他の人も、光が来たならば、光が来たそのときの自己(自我)のありようを観るのがよろしい、と思う。

 光は入る場所によりて、天上、畜生、地獄等の区別もあるので、光が入ってきたといっても、すべての人が善なる人、または、善趣に赴くということではない。(もっともこれは、仏陀からの光によるので、参考までに。)
 私の場合は、眉間から光が差し込んでいるので天上へ赴くとされる。


 自らも、光が来てほしいというような人は、昔、譬えで記したように、宝を探すのだけれども、探してはならない、と。

 貪欲・瞋恚を起こして、光が来て、身体の善くない箇所から入り、悪趣への出生が決定的になるというようなことがあれば、どうもこうもないので、貪欲心・瞋恚心を起こして禅定をしてはならない。



 掲示板・他で記している倉稲魂命の光は、ワインレッドのような色でワインレッド系がまざった感じの色でした。

 倉稲魂命の光は身体に入っておらず、助けていただいた時に見た光です。

 行く前に、急激な突風等でいつもと違う空気は自らでも感じられる。

 神社で倉稲魂命に手を合わせたら、悪いのが外れてパッツリ飛んでいった。
 悪いのが身体から離れて、吹っ飛んでいったという感じ。(バットでパッツリ打たれて、外れて吹っ飛んで行ったという感じ)

 その時は、身体がかなりきつかったので、とても助かった。助けてもらった。

 ちなみに、倉稲魂命は、日本神道。

 そして、狐ではない、と。





〔穀物神としての稲荷に関する迷信に関して〕

〔稲荷とは、日本の古記によると、保倉神(ウケモチノカミ)の屍に稲の生えたのを、天照大御神が刈らせ給うたとも、大食津比賣神(オホケツヒメノカミ)の両の眼に生えたとも傳へられているが、それは要するに神代に於ける稲の栽培を物語るもので、稲に交渉深い保食神の尊ばれる由縁である。
 ウケモチ神は、又の御名を、オホゲツヒメ神、ウカノミタマ神と云い、伊勢外宮の御祭神トヨウケヒメ神(豊受大神)で、日本所謂稲荷は、此神を主神としている。
 この御神は、火の神と土の神との御子であられるワクムスビ神の御子で、穀類は、はじめ此神の御體から成りはじめたので、それで稲をはじめ、あらゆる穀類を司る神、また倉稲(倉物)を司る神とされる。
 それを、何故イナリ神と申すかというのは、それは日本の神話に、この神の御腹の中に、稲生と見えていることから、稲生の神、イナリの神と申すので、イナリの祭禮の提灯の紋に、稲穂を用いるのも、この由来に基を引いている。

 それなら、稲生でよさそうなものを、何故イナリに稲荷とあてるかといふに、これには別の譯がある。
 昔、弘法大師が、東寺というお寺の傍を通ったら、一人の稲を荷った老人に逢った。弘法大師は、その翁から、いろいろの教へを受け、その教えのまことに尊いことから、大師は、その老人は、神様の假に老人の姿をしたまうのだということを知って、その姿を神に祀り、東寺の鎮守とし、稲を負うている姿によって稲荷明神と敬ったという。
 これから稲荷の字が出来たのだと言われている。

 狐を稲荷の神の使いとすることは、稲荷神の又の御名オホゲツヒメ神を、漢字で書くと、大宜都比賣神(オホゲツヒメノカミ)とも大御食都神(オホミケツノカミ)などと書く。
 このケツは、御饌津(ミケツ)の義であるのを大狐姫神(オホゲツヒメノカミ)とか、大三狐神(オホミケツノカミ)などあて字して書いたところから、
愚昧な人達の間に、何時ともなく狐を直に神に祭って福を祈る迷信を生じた。

 その道(神の道)のプロであるのに、狐を直に神に祭って福を祈り迷信しないように、また、狐に化かされるようなことの無いようにご注意下さい。


 穀物の稲は、仏教で云えば、釈尊の父シュッドーダナが「浄らかな米飯」という意味の言葉であり、その兄弟もすべてオーダナ(米飯)という言葉を含む名前であり、シャカ族と農耕との密接な関係を示している。







 法輪が回転し始めているのでもう畜生霊系統には勝義はない。最初からないけれども。

 要するに、憑物の者達のグループ(MやSやN等)による国取合戦は終了。

 もし、日本は借金が多すぎるから、経済が破綻するのかもしれないとかで、あきらめたり、心配しているのであったとしても
憑者みたいに暴徒化する必要はない。

 他の国で経済が破綻したけれども、建て直しをしている国だってあるのだろうから。

 計画的に借金国になったのなら、計画を立てた者達の責任でもあるのかどうなんだか。

 畜生霊系統の者の指示を聞いていた結果が現在の日本なのだろうか。


 どちらにしても、畜生霊は、国及び世界の頭になる存在ではない。

 聖者方は人間に畜生道を望んでいない。



 狐の霊は、中国であばれた九尾の狐や、イエズスを亡き者にしようとした狐等、いろいろ悪狐もいるが、

 仏陀の言葉に、畜生の野干に関する言葉があり、「その野干を助けたならば、その野干は恩を忘れないだろう」というような教えがあり、私はこの教えをずっと思っていたが、仏陀の弟子の私としては、畜生・野干等にたいしては、この教えのとおりに、思っている。


 しかし、畜生という存在は、覚とりにいたることはない。

 畜生に関しての話で言えば、龍神が化作して、人間の姿をとり、出家して比丘となったという話もあるが、その龍は、寝ているときに姿がもどり龍であると他の比丘に知られたことにより、仏陀に呼ばれて、「畜生は覚ることはできない」というように言われている。
 そして、龍神は泣きながら去っていった。

 ちなみに、そういうこともあり、佛教では、出家するときに、その者が人間であるか、非人であるか、というのは、きちんとその者自身に問うこととなっている。

 龍神等の畜生は、仏陀の教えの修習・八斎戒等を行い、来世において、人間となってからでなければ、覚ることはできない。


(仏陀の教えは天神や他の存在から見ても、大きな功徳があるので、他の存在も、仏陀の元において、出家を望む。

 天の神々も仏陀と阿羅伽の聖者方に供養を成す。

 仏陀の元において、覚りを得た聖者は一人や二人ではなく、十人や二十人でもない。多くの阿羅伽の聖者がおられる。また、阿那含や斯陀含や須陀洹の聖者の流れに入った人も十人や二十人ではない。神通を得ている聖者も、十人や二十人ではない。

 そして、その全員がみな、妄語をするような方々ではなく、餓鬼・畜生・地獄の者のような「妄語をしてもわからないだろう」というような低劣無知な者からは遠い。

 聖者方は、妄語をする者の妄語を生じる悪心をも観られるので、餓鬼・畜生・地獄の者のような「妄語をしてもわからないだろう」というような低劣無知な者は、聖者方の中に含まれることはない。

 また、その者自身のその低劣無知な悪心は、清浄がわからない故の悪心でもあるので、その悪心を持ちて禅定をしても清浄とはならず、身体を捨てたとしても、善趣に赴くとはされず、悪趣に赴くが故に、聖者方の中に含まれることはありえない。

 また、天神方も、妄語をする者の妄語を生じるその悪心を観とおすので、天の衆生からも、そのような者は聖者方として認められるということもない。)




ちなみに、

 仏陀は悟りを開いた後に、アジャパーラ・ニグローダ樹という、根元に人が坐れる樹の元で三昧をされていたそうです。

(インドではそれぞれの大樹に固有の名称をつけることがあり)アジャパーラ〔山羊飼い達が休息するので「山羊飼い」、又は「山羊を護る者」〕という名前のニグローダ樹〔榕樹(バンヤン)。榕樹はクワ科イチジク属の木〕の元に居られた。)

 喩えば、羊は当然、普通に問題ないけれども、山羊の場合は、他の方だと飼うのが難しい。

(仏典では、微妙な部分。かばいすぎると、私が聖者方に叱られそうなので、控え目で。)


「神霊(夜叉)よ、聞け。

 それらの煩悩がいかなる原因にもとづいて起るかを知る人々は、それらの煩悩を除きさる。

 かれらは、渡りがたく、未だかつて渡った人のいないこの輪廻の激流を渡り、もはや再び生存をうけることがない。」

 要するに、どちらにしても、それぞれ自己。



 仏陀(全知者)の教えとは、

 それは、ものすごい安らぎとしてのあたたかさ。

 仏陀の教えは、知れば知るほど、後世の人々をも観てくださっている仏陀のその行いの一つ一つに、その究極的な慈悲心に気付く。

 その一つ一つの究極的な慈悲心を観させてもらうと、本当に素晴らしい、本当の慈悲の方であるとして、こみ上げてくるものがある。その本当の慈悲、言葉では言い表せないほどの優しさに感動と感謝で泣けてくる。

 仏陀と仏陀の弟子の方々が、どれほどに後世の人々のことを案じていてくださったことか。

 仏陀と仏陀の弟子の方々は、本当に衆生のことを思ってくださっている。

 衆生というのは、私もあなたも、すべての衆生に對する、慈悲。

 その慈悲心、言葉では言い表せないほどの優しい安らぎあるあたたかさ。

 それが 道行く人、全ての人の心 をあたためる。



  慈しみの心

『いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、細長いものでも、あるいは巨大なものでも、中くらいのものでも、短小なものでも、微細なものでも、粗大なものでも、眼に見える大きなものでも、眼に見えないものでも、いまここに現在いるものでも、あるいはいないものでも、遠くにいるものでも、、あるいは近くに住んでいるものでも、過去に存在したものでも、あるいは未来に存在しようとしているものでも、あらゆる生きとし生けるものが、安楽であるように』


『いかなる生物生類であっても、 あらゆる生きとし生けるものが、安楽であるように』


 仏陀の慈悲は、羊においても、山羊においても同じく、あらゆる生きとし生けるものが、安楽であるように。








 鶴は千年、亀は万年。

 梵は劫期、聖者は涅槃 。


 昔の日本神道は目が浄いと思われました。

 今は人間の教え(神の道)と、畜生霊(畜生道)との区別がついていないところも多々あるような感じにも見受けられた。

 日本神道に、悪い念が入ってきて同化しているところがあるようなので、そろそろ自ら弓の弦を鳴らして、祓うのも善いと思い。

 天の魔羅(欲界、憍慢豪貴の天の魔羅・悪魔)を降伏せるのは、智慧の矢。(佛道・八聖道)

 三輪淸浄。






〇世間の人々が、善処へ赴くため常識化させると善い行い(五戒)〇


〇生きものを自ら殺してはならない。また他人をして殺さしめてはならない。

 また、他の人々が殺害をするのを容認してはならない。

 世間に於ける強剛な者どもでも、またおびえている者どもでも、一切の生きとし生けるものどもに對する暴力を抑えて。


〇与えられていないものを、何物でも、何処にても、他物と知りつつ、取ることを避けなさい。

 また、他人をして取らせてはならない、また、他人が取り去るのを容認してはならない。

 一切の与えられていなものを取ることを避けなさい。


〇諸々の(賢者)は、非梵行(性行為一切・淫行)を避けなさい。

 熱せられた炭火を回避するように。

 しかし、梵行(不淫行)を行うことができない者は、少なくとも他人の妻を犯してはならない。


〇議会集会にありても、または、衆中にありても、何ぴとにも嘘言をしてはならない。

 また、他人をして嘘言させてはならない。また、他人が嘘言するのを容認してはならない。

 一切の虚偽を語るのを避けなさい。


〇飲酒をしてはならない。

 この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならない。また、他人が飲むのを容認してはならない。

 飲酒は、終いに人を狂酔せしめるものであると知りなさい。

 諸々の愚者は酔いのために悪事を行う。

 また、他人を怠惰ならしめて、また悪事をなさせる。

 これは、愚人が愛好するところであるが、人々を狂酔せしめ狂わせるものである。

 この禍いの原因たる飲酒を回避しなさい。


○自ら生きものを殺してはならない。他人をして殺させてはならない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。

○与えられていないものを取らない。また、与えられていないものを取らせてはならない。

○悪行をしてはならない。また、悪行をさせてはならない。

○嘘を言うてはならない。また、他に嘘を言わせるようにさせてはならない。
○人を欺いたり、騙したりてはならない。また、他に、人を欺いたり、騙したりさせてはならない。

○淫らな行為(邪淫)をしてはならない。また、淫らな行為(邪淫)をさせてはならない。

(○飲酒をしない。また、飲酒をさせてはならない。)



 上記が、善なる人々の進むべき方向。

 そして、良識がもたらされる。






 仏陀の説く道理は、動物(畜生)には理解できません。

 理解しがたい道理を悟れるのが、人・清浄なる人々・善なる人々です。





さくら









更訂 H31.11.15