自ら不正になずんだ者に生じる苦しみ 『かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。 かれらは、欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、 「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。』 洞窟についての八つの詩句 窟(身体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、このような人は、実に〈遠ざかり離れること〉(厭離)から遠く隔たっている。 実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。 他人が解脱させてくれるのではないからである。 かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。 かれらは、欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。 だから人はここにおいて学ぶべきである。 世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、それのために不正を行ってはならない。 「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたくしは見る。 下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。 (かれらのありさまは)干からびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。 これを見て「わがもの」という思いを離れて行うべきである。 諸々の生存に対して執著することなしに。 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。 想いを知りつくして、激流を渡れ。 聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。 スッタニパータ
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