更訂 H29.4.30



  害することのないことを喜び、害することのないことを楽しみ住することについて



 『(仏陀)如来は無害を大いに喜び、無害を悦び楽しみ、この尋思を大いに修行する』

 『汝らもまた、無害の喜びと、無害の悦び楽しみとに住しなさい』





  尋思

 たしかにこのことを世尊は説き、應供は説かれた、と私は聞いています。

「比丘たちよ、如来・應供・正自覚者は二種の尋思を大いに修行する。

 安穏(無害)の尋思と、孤独(独りある寂静)とである。

 比丘たちよ、如来は無害を大いに喜び、無害を悦び楽しみ、この尋思を大いに修行する、

『我は、この威儀によりて、どのような有情〔五蘊・生命あるもの〕も、非情〔草木・石等情識のないもの〕も害することはない』と。


 比丘たちよ、如来は孤独〔世間・人の喧騒から離れ、独りある静寂・独りある寂静〕を大いに喜び、孤独を悦び楽しみ、この尋思を大いに修行する、

『不善なるものを、捨て去り離れ去る』と。


 その故に、比丘たちよ、汝らもまた、無害の喜びと、無害の悦び楽しみとに住しなさい。

 比丘たちよ、汝らの中の、無害の喜びと、無害の悦び楽しみとに住する者は、すなわち、尋思を大いに修行する、

『我々は、この威儀によりて、どのような有情も非情も害することなし』と。


 比丘たちよ、汝らの中の、孤独〔世間・人の喧騒から離れ、独りある静寂・独りある寂静〕の喜びと、孤独の悦び楽しみとに住する者は、すなわち、尋思を大いに修行する、

『あらゆる不善を、あらゆる未だ捨離していないものを、我々は捨離する』と。


 この義を世尊は語られ、ここに次のように説き給うた、

「(他の者が)耐えることのできないものを耐えられた如来・仏陀は、この二の尋思を修行する、

 一を安穏(無害尋思)と言い、二を孤独(尋思)と言う。

 暗闇を消し彼岸に行ける聖仙(仏陀)は、かの利を得て、漏〔煩悩〕なく一切の渇愛を尽した解脱者である。

 その牟尼こそ(迷いの生を繰り返すことのない)最後の身を得て、慢心を断ち、老衰を越え、彼岸に達した者である。

 山頂の石に立てる者の、四方位に人々を見おろすように、そのように一切を見る賢者は、法の高楼に上り、

 憂いを離れた人として、憂いに沈む人々と、生と老とに悩む人々を見おろす」と。


 この義をもまた、世尊は説き給へりと私は聞きました、と。

如是語経






『比丘たちよ、如来は孤独〔世間・人の喧騒から離れ、独りある静寂・独りある寂静〕を大いに喜び、孤独を悦び楽しみ、この尋思を大いに修行する』という教えについて、

 世の女性のために、追記教示しておくと、

 孤独〔独りある静寂・独りある寂静〕を喜ぶというのは、教えで言う、他に依存せずに自己に依り、法に依り、修行をする。という意味であり、
 また、阿蘭若〔世間・人の喧騒から離れた、森林・原野・荒野・修行する場所・町や村を去ること近からず遠からず修行するのに適した場所〕に住して、修行するという意味でもあるが、



 それについて、比丘尼〔女性修行僧〕に関して追記すると、


 律において、比丘尼〔女性修行僧〕は、阿蘭若に住してはならない。

 また、比丘尼は独りで村中を行き、独りにて河を越え、あるいは独りにて夜出行し、あるいは独りにて衆より残れば、この比丘尼の罪悪業となる。

 として、律に制定されている。



 このように比丘尼〔女性修行僧〕は、基本は複数人以上で行動をする。

 これは、要するに、女性比丘尼は男性比丘と異なり、か弱く、男性暴漢などの被害を受けている比丘尼もいること等から、女性比丘尼を守るためにも、制定されている。




 比丘〔男性修行僧〕は、

『比丘たちよ、汝らもまた、無害の喜びと、無害の悦び楽しみとに住しなさい。

 比丘たちよ、汝らの中の、無害の喜びと、無害の悦び楽しみとに住する者は、すなわち、尋思を大いに修行する、

「我々は、この威儀によりて、どのような有情も非情も害することなし」と。』

 汝らの中の、孤独〔世間・人の喧騒から離れ、独りある静寂・独りある寂静〕の喜びと、孤独の悦び楽しみとに住して、尋思を大いに修行するべし、と。



 要するに、比丘(男性)でも比丘尼(女性)でありても、

 心は、孤独〔世間・人の喧騒から離れ、独りある静寂・独りある寂静〕を大いに喜び、孤独を悦び楽しみ、この尋思を大いに修行するべし。


 肉体的に言えば、女性(比丘尼)は、保身のためにも、律において制限・制定・保護されて、肉体的に独り住するのは罪悪業となる。
 また、これは、女性(比丘尼)は、基本は複数人以上で行動をするにしても、他に依存せずに自己に依り、法に依り、
心は『孤独〔世間・人の喧騒から離れ、独りある静寂・独りある寂静〕を大いに喜び、孤独〔独りある寂静〕を悦び楽しみ、この尋思を大いに修行するべし』、
 そして『汝らもまた、無害の喜びと、無害の悦び楽しみとに住しなさい』という意味である。


 また、寂静というのは、単に黙っているという意味ではなく、欲念や雑念のない聖黙・沈黙という意味でもある。
最上で言えば、解脱、涅槃を言う。