邪行を厭離することについて 『邪見は身・口・意の三業ことごとく邪行に向かはしめ、邪思乃至邪定を起こす。 正見は身・口・意の三業ことごとく正行に向かはしめ、八聖道を起こす。』 邪正経 このようにわたくしは聞きました。 あるとき世尊は舎衛国の祇樹給孤独園に住まっておられた。 その時世尊は、諸々の比丘に告げられた、 「邪及び、邪道有り。 正及び、正道有り。 諦かに聴き善く思へ、まさに汝が為に説くべし。 何等をか邪と為す。いわゆる地獄・畜生・餓鬼である。 何等をか邪道と為す。いわゆる邪見乃至邪定である。 何等をか正と為す。いわゆる人・天・涅槃である。 何等をか正道と為す。いわゆる正見乃至正定である」 このように世尊は説かれた。諸の比丘たちは、世尊の説かれたことを歓喜し敬って受けた。 邪正経 このようにわたくしは聞きました。 あるとき世尊は舎衛国の祇樹給孤独園に住まっておられた。 その時世尊は、諸々の比丘に告げられた、 「邪有り、邪道有り。 正有り、正道有り。 諦かに聴き善く思へ、まさに汝が為に説くべし。 何等をか邪と為す。いわゆる地獄・畜生・餓鬼である。 何等をか邪道と為す。いわゆる殺・盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪・怒・邪見である。 何等をか正しいと為す。いわゆる人・天・涅槃である。 何等をか正道と為す。いわゆる不殺・不盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・無貪・無怒・正見である」と。 このように世尊は説かれた。諸の比丘たちは、世尊の説かれたことを歓喜し敬って受けた。 向邪経 このようにわたくしは聞きました。 あるとき世尊は舎衛国の祇樹給孤独園に住まっておられた。 その時世尊は、諸々の比丘に告げられた、 「邪に向かえば、法に違背して法を楽〔ねが〕はざるなり。 正に向かえば、法を楽ひ、法に違はざるなり。 何等をか邪と為す。いわゆる邪見乃至邪定なり。 何等をか正となす。いわゆる正見乃至正定なり」と。 このように世尊は説かれた。諸の比丘たちは、世尊の説かれたことを歓喜し敬って受けた。 邪見正見経 このようにわたくしは聞きました。 あるとき世尊は舎衛国の祇樹給孤独園に住まっておられた。 その時世尊は、諸々の比丘に告げられた、 「邪に向かえば、法に違背して法を楽〔ねが〕はざるなり。 正に向かえば、法を楽ひ、法に違はざるなり。 何等をか邪に向かえば法に違ひて法を楽はずと為す。 いわゆる邪見の人は身業も所見の如く、口業も所見の如く、もしは思、欲、願、為、これら皆随順すれば、一切愛せざる果、念ぜず意す可からざる果を得る。 それは何故であるか。 見悪なるを以ての故にいわゆる邪見なればなり。 邪見は邪志(邪思)・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定を起こす。 これ邪に向かえば法に違ひて法を楽はざるなり。 何等をか正に向かえば法を楽い法に違はずと為す。 いわゆる正見の人は身業所見に随い、もしは口業、もしは思、もしは欲、願、為、ことごとく皆随順すれば、愛す可く念ず可く意す可き果を得る。 それは何故であるか。 見正なるを以ての故にいわゆる正見なればなり。 正見はよく正志・正語・正業・正命・正精進・正念・正定を起こす。 これを正に向かえば、法を楽ひ法に違がはずと名づく」と。 このように世尊は説かれた。諸の比丘たちは、世尊の説かれたことを歓喜し敬って受けた。 邪見正見経 亦た偈を説いて言はく、 「非法には近づくべからず 放逸は行ずべからず 邪見を習うべからず 世間を増長せん たとひ世間に有らんも 正見増上せば 復た百千生ずといえども 終に悪趣に堕ちず」と。 このように世尊は説かれた。諸の比丘たちは、世尊の説かれたことを歓喜し敬って受けた。 雑阿含経二十五
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