12月10日(2015年)
本日は、
聖書の創世記の話で、
神は六日で天地万物を完成され、七日目に神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。とされる。
仏典でいえば、天上の世界の一日は、この人間世界の一日と桁違いに長いとされる。
その長さはその天により異なる。
ということでいえば、天上の世界の六日で、天地万物を完成されたというのは、理論でいっても、単なる比喩でなく、
実際に神の世界でのたったの六日で天地万物を完成されたというのは、単なる譬えではないと言える。
その六日を人間世界での六日だと考えてしまったならば、人間世界での六日といえば、144時間しかないわけだから、
人間世界の日数でいう六日、で天地万物を完成させたとすると、現代の人間世界の物理の考え方で言ってもその考え方は正しくない。
そもそも人間世界の人間が妊娠してから出産するまでの間ですら、144時間では全然無理。
ということで、創世記の七日というのは、天上の世界での日数であるとすると、理論としても、間違っていないと言える。
と、思ってみた。
話は変わって、
地球の規模での話なんだけど、地球で争い事をなくすためにどうしていくべきなのだろうか、という事柄について考えることがあるんだけど、
地球の人口の増加が地球規模での問題だよな、と、今日も、ふと思ったのだが、
地球の人口の増加が爆発的に増え続けていったならば、問題だろうな、と。
平和で豊かになり、医療技術も向上したならば、おのずと人間の平均寿命も増え、世界の人口も増加していくことだろう。
日本では少子化で人口減少傾向にあるが。
あれだよね、世界の人口の増加の問題もきちんと対応策を考えないと、地球が満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めになってから考えても、
なかなか対処できないだろう。
そうなると、地球の人間だけの問題でもなく、動物や植物も被害を被ることだろう。
悪行なく、安全な、地球の人口の増加に対する対応策はないものなんだろうか。
悪行なく、安全な、地球の人口の増加に対する対応策として、その対策をあなたも一緒に考えなければならない、とすると、あなたは何か考えられる対策はありますか。
そういう中で日本はなぜ少子化になっているのだろうか。
対策として、例えば、人間の平均寿命の増加にともない世間の結婚適齢期の世代をずらすとする、
そうすると、出産育児の状況も変わるだろう。
しかし、女性は子供を生むのにも年齢がある程度限られている。
出産適齢期を過ぎた出産は母子ともに危険でもある、と。
そういう問題も生じてしまうか。
また、教えによって、人としての道徳として、子供たちに清浄な教えを小さい頃から学ばせてあげるようにして、心身ともに清らかな生涯・生活を保つようにさせる。
例えば、女性は、結婚式でも、清楚にして、浄らかなバージン(処女)ロードを歩くような女性を善しとする。
というような善い思想をもつように道徳を学ばせてあげるようにする。等
(子供が世に出生するのであれば、バージン(処女)ロードを歩くことができる浄らかな女性のような、天子が胎に宿りやすい状況を増やしてあげる。等)
また、地球で争い事をなくすために、というので、教えとして、仏陀の教え・善の教え・真理を弘通することによって、
善なる人の基準という道徳を知れば、その基準という方向が見えることによって、その人自らで、自らの価値観を比較検討して修正する方向が見えるので、修正も可能となるだろう。
『世尊がさとった人の眼をもって世界を観察されると、世の中には、知恵の眼が煩悩の塵に汚れていない者もあり、酷く汚れている者もある。生まれつき資質のすぐれた者もあり、素質の劣った者もある。善い性質の者もあり、悪い性質の者もある。教えやすい者もあり、教えにくいものもある。また、来世に生まれて苦を受けねばならぬおのれの罪業についておそれを知りつつ暮らしている者たちもある、ということを見られた。』
ということで、教えを理解できる人もいる。
争い事を厭い離れるためにも、地球規模で仏陀の教え・善の教え・真理を弘通する。というのは善い。
仏陀の教えによって、善なる人の行いという基準を、道徳として知った人は、その教えを、自らの行いと比較検討して修正する方向が見えるので、修正も可能となる。
このHPで、仏陀の教え・善の教え・真理を知って、悪行を離れ、善行を行おうと思った人もいることだろう。
なぜ、そのように思ったのか。
なぜ、そのように思えることができたのか。
要するに、
善なる人の基準という理法・善・道徳を知ることにより、また、善なる人の基準という理法・善・道徳を知ったことにより、
その基準という方向が見えることによって、その人自らで、自らの価値観や行いを比較検討して修正する方向が見えるので、修正も可能となり、
自らの価値観や行いが修正・改善されつつある。
ということでもある、と。
12月13日
本日は、
道教聖典より
『老子曰く、
それ善の心を起せば、善はいまだ為さずとも、吉神はすでにこれに随う。
しかし、悪の心が起こるならば、悪はいまだ為さずとも、凶神はすでにこれに随う。
かつて悪事を行った者も、後に自ら悔い改め、諸々の悪を為すことなく、諸々の善を行えば、長い時間を経ても喜ぶべきこと〔善い報い〕を得る。
いわゆる、禍を転じて福となすものである。
故に、吉人は善を語り、善を視て、善を行う。
一日に三の善を行えば、三年にして天はこれに福を降す。
凶人は、悪を語り、悪を視て、悪を行う。
一日に三の悪を行えば、天はこれに禍を降す』
禍を転じて福となす
日本語のことわざとしての意味では、
わざわいに見舞われても挫けることなく、禍を逆に活用して、幸せにかえてしまうこと。
禍を転じて福となす
わざわいに見舞われても挫けることなく、禍を逆に活用して、仏陀の教えを説き、人々を善へと導く。
『善き利のうちでも最上の自利である〈堪え忍ぶこと〉よりもすぐれたものは、存在しない。
真に力のある人が、大力あるのに、無力・愚痴の力の者を堪え忍ぶならば、
それを〈最上の忍耐〉と呼ぶ』と。
テロ側の存在の邪行・悪行は、善なる道を行く多くの人にとって、また、私にとっても、わざわいである。
話はかわって、
創世記の話で、
創世記の、エバを騙くらかしたヘビが、神から呪われたものとなった、ということは、
ヘビが悪魔であれば、悪魔が呪われたものとなったということであって、
神は、大いなる怒りをもってヘビに云って、これに言われた
『こんなことをして、心のゆるんだ者たちを惑わせるまでに、恩知らずな道具となったからには、ありとあらゆる家畜たちに抜きん出ておまえは呪われたものとなろう。〔すなわち〕おまえは口で食べるその口を奪われ、おまえの生ある日々のすべて、塵を喰うことになろう。胸と腹で進み、おまえの手も足も欠くことになろう。おまえに耳は許されず、まして翼も、おまえがおまえの悪だくみによって誘惑し、彼らが楽園から追放されるようにするのに使ったすべての〔器官の〕どれひとつの部分も〔許されることはない〕。そうして、おまえとの間に、彼の子孫との間に、敵意を置こう。〔すなわち〕裁きの日に至るまで、彼はおまえの頭を狙い、おまえは彼のかかとをねらうことになろう』
と言われたように、悪魔は生涯這いまわり、塵を食らう。ということになるが、エバを騙くらかした悪魔サタンは生涯這いまわっている体形になっていない。
と、いうことは、やはり、ヘビが悪魔ではなくて、ヘビは悪魔サタンに騙されて、その騙されたヘビが呪われたものとなったということだ、と。
悪魔がヘビに化けてエバを騙したという話を聞いたことがあるが、その悪魔がヘビに化けたという話の方が間違いということになるべ。
悪魔が生涯塵を食らうようなことになっていなければ、または、ヘビ体形になっていないとしたら。
このように、ヘビが悪魔かどうかの話は別としても、神は悪魔に憑かれて過ちを犯してしまった者に、楽園追放という裁きを与える。
ということは、どういうことかわかりますか。
テロ側の存在の、悪魔に誘惑(騙)されて過ちを犯し、聖者の弟子を亡き者にしようとして悪行をした者、に対して、神はどのようになさるだろうか。
また、真理を知ってもなお、悪魔に誘惑(騙)されて過ちを犯し、悪行を離れず、悪行を犯し続けるという愚かな者に対して、神はどのようになさるだろうか。
イエズスは言われた、
『よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
そして子は人の子であるから、子に裁きを行う権威をお与えになった。
このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
善を行った人々は、生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は、裁きを受けるためによみがえって、それぞれ出てくるときが来るであろう』
12月14日
本日は、
また、我が家の水道水でうがいをするだけでしびれる。しびれ水。
聖書のアポクリファにも理解できる教えが記されている。
『善にまじるのに悪を以てする者は、善人と称すべからず』
『善きものは必ず来るべく、これを来たらす者は幸福なるかな。
悪しきものも必ず来る、されどこれを持ち来たす者は禍なるかな』
『主は言われた
「汝狼の群れの中の羊の如くなるべし」
ペテロは言った
「もし狼が羊を寸断したならばどうなのですか」
イエズスは言われた
「すでに死したる後に、羊は狼を恐れる理由はない。
汝らを殺して何をも為しえない者を恐れてはならない。
されど汝らが死したる後なほ霊魂と身体との上に力を有して人を地獄に投げ入れる者を恐れるべし」』
『善きものは必ず来るべく、これを来たらす者は幸福なるかな。
悪しきものも必ず来る、されどこれを持ち来たす者は禍なるかな』
例えば、テロで罵詈雑言〔「死ね」だの、「殺せ」だの、「殺す」だの〕を言って、世間の人々に邪念を見せ付け、邪念を伝播している者達は、
善きものと悪しきものとのどちらを持ち来たらしているでしょうか。
答えは、子供でもわかるだろう。
なぜわかるのか。
そんなのは世間の常識であるのだから。
そういう世間の常識から逸脱して、罵詈雑言している者達は、何をやってるんだ、っていう話だね。
まぁ、もう犯罪に手を染めてしまっている者については、地獄に堕ちるからやめなさいっていうように忠告を言ってあげても、受けとめることすらも難しい状態。
視点を変えて、私だけでなく、小学生や中学生や、大学生でもいいけども、
自分達の悪行について、私達は罵詈雑言〔「死ね」だの、「殺せ」だの、「殺す」だの〕を言って、世間の人々に邪念を見せ付け、邪念を伝播しているが、
人々に善きものと悪しきものとのどちらを持ち来たらしているか。
と、問うてみれば、良識ある答え、というか常識の答えが返ってくるだろう。
非行中の少年少女に聞けば、また別かもしれないけれども。
悪行を重ねている妖術者も、もう高が知れている。
霊的な世界を知っているようで全く知らないっていう話だな。
真理が見えないし、聞こえないっていうのは、
まぁ、だからこそ悪業を積み重ねているということでもあるだろうが、
あなた方、仏陀の言葉をきちんと受け止めるべきだよ。
自らで受け止めないで、また、悪魔に憑かれて受け止めることもできすに、悪業を重ね続けたならば、悪処に出生して、安楽を多く味わうことがもう永遠のような間なく、苦しみを多く受けることが永遠のような間続くというような輪廻に入ったら、それこそ最悪だよ。
あなた方はもう、その地獄や悪処へと堕ちる穴の入り口のところに立っていて、もう悪業を犯して悪処へと行くと決定している者もいる始末だべさ。
このHPで、仏陀の教えを学び、善行を行おうという心を生じている人々は、真理・道理としても善処へ行ける人も多くいるだろうというのに。
導く存在の違いで自らの存在としての行き先も、大きく異なるというのもよく理解できよう。
畜生霊に導かれるとかって、そっちも人の行く道でないよ。
ちなみに、メーソンは結局、何に導かれているってことになっていたのか。
ネットの36階位とかも、本当なんだか嘘なんだかもわからない情報だからね。
検索であんなにすぐ見つけれられるような36階位なら、全然、秘密にすらなってないようなもんだからな。
もしも、悪魔が頂点にいるということであれば、
あれだね、
その下のピラミッドの中の各人は、
善なる人と不善なる人の善と不善についての理解について
この違いの理解もできないということにもなる。
『「修行僧たちよ、不善なる人は不善なる人のことを、『この者は不善なる人である』と知り得るでしょうか」
「尊師よ、そういうことはありません」
「修行僧たちよ、よく分かりましたね。修行僧たちよ、不善なる人が不善なる人のことを、『この者は不善なる人である』と知り得るようなことは、道理としてもなければ、可能性としてもないのです。
それでは、修行僧たちよ、不善なる人は善なる人のことを、『この者は善なる人である』と知り得るでしょうか」
「尊師よ、そういうことはありません」
「修行僧たちよ、よく分かりましたね。修行僧たちよ、不善なる人が善なる人のことを、『この者は善なる人である』と知り得るようなことは、道理としてもなければ、可能性もないのです。』
ということは、善なる存在、不善なる存在のことをも知り得ることがないだろう、と。
そのように、善なる存在、不善なる存在のことをも知り得ていないが故に、
悪魔崇拝っていうのであれば、結局、たいして真理も見えていないっていう話にもなるだろう。
実は、善なる神、父を崇拝しているのです。というのであれば、その人を一見した状態で言えば、この人は理法を少なからず見ているのかもしれないという話にもなるだろう。
(その人がどのように見ているのかは、話を聞けば理解されるだろう)
というような、答えも導きだされる。
あとは、36階位とか、正しい情報を知りたい人はネットの適当な情報よりも、メーソンの人に聞いた方がいいだろう。
他、新世界秩序っていうのは、この世界は霊的な存在も影響を及ぼしているが故に、仏陀の教えも知らず、善なる存在、不善なる存在のことをも知り得ないのであれば、
仏陀の教えを学んでいない・知らないために、悪魔や魔術者や妖術者に操られて、秩序の維持もできないだろうから、
新世界秩序を打ち立てても、既存の世界秩序とたいしてかわらずっていうことにもなりえるだろう。
秩序は何ゆえに必要なのか。
云々。
人として、何を求めるのか。
人は、人々は、何故にこの世に生まれてくるのだろうか。
云々。
12月20日
本日は、
先程、ふと、私は正しく悟りを得た人・仏陀の弟子であるが、聖書の他のイエズスの言葉も解説していこうかな、と思い、
すでにイエズスの教えは説いているのであるが、さらに他の人々がイエズスの言葉の意味も理解できるようにと思い。
今日はトマスの福音書を読んで、
イエズスは言われた
「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現われ出た。私は彼らが皆酔いしれているのを見出した。
私は彼らの中に一人も渇ける者を見出さなかった。そして、私の魂は人の子らのために苦痛を受けた。
なぜなら、彼らは彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。
彼らは空(から)でこの世に来て、再び空(から)でこの世から出ようとしているからである。
彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう」
の言葉について、
この空(から)っていう意味の言葉は、私の仏陀の教えでいう空(くう)とは異なる。
間違えないように説明をするが、以前にも同様の説明はしているが、
仏陀の教えで言う、空は、通常の人が簡単に到れる境地ではない。
また、その修行者が、単なるからっぽの思いということなのではない。
空を観るその修行者は、仏陀の教え・真理・理法に満ちている。
善で満ちている。
そのように、その修行者はこの世から出るときは、真理と善業に満ちて、出て行くことだろう。
その反面、真理を見ることのない者は、彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。
真理を見ることのない者、
『彼らは空(から)でこの世に来て、再び空(から)でこの世から出ようとしているからである。
彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう』
快楽に酔いしれている、その酒(真理についての無知)を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう、と。
12月21日
本日は、
今日も胃がとても痛い。
会社の忘年会でウーロン茶を飲んでから痛みがました。いつもなら、食事をすると痛みが和らぐのだが、忘年会で食事をしてから痛みが増した。
忘年会の帰り際に女性の店員さんが、「ウーロン茶に毒は入れてません」って言ってたのに。(別にこちらから店員に何か訊ねたわけでもなく)
というか、普通店員がそういうことを言わないけどね。
要するに、テロのストーカ殺人犯達がそういうことまでさせているということ。
テロ側の犯罪者達は本気で私を殺そうとしている、と。
はっきり言って笑い話でもなんでもないんだけれども。
そういう存在について行っているテロ側の者達も、人としての道からだいぶ外れているというのに、気づきもせず。
数年間の嫌がらせ、さらに、病気の治療の邪魔をして、さらに、お尻の筋肉をとるくらいの悪行者の者達だよ。
テロ側の存在の行き着くところが結局は、ストーカー殺人なわけなのに、どうしてそういう犯罪者を捕まえないんだろうかな。
テロ側の存在も、そういうストーカー殺人犯達と一緒に笑って悪行しているくらいであれば、自らが悪処に赴くというのも自分自心でもわかるだろうに。
自分達の進んでいる方向がわかるだろうに。
『 悪行を重ねている妖術者も、もう高が知れている。
霊的な世界を知っているようで全く知らないっていう話だな。
真理が見えないし、聞こえないっていうのは、
まぁ、だからこそ悪業を積み重ねているということでもあるだろうが、
あなた方、仏陀の言葉をきちんと受け止めるべきだよ。自らで受け止めないで、また、悪魔に憑かれて受け止めることもできすに、悪業を重ね続けたならば、悪処に出生して、安楽を多く味わうことがもう永遠のような間なく、苦しみを多く受けることが永遠のような間続くというような輪廻に入ったら、それこそ最悪だよ。
あなた方はもう、その地獄や悪処へと堕ちる穴の入り口のところに立っていて、もう悪業を犯して悪処へと行くと決定している者もいる始末だべさ』
という、先日、私が言っている言葉の意味はわかりますか。
善人は、テロ側の犯罪者のようなストーカー殺人をも犯さないし、そういう悪しき行いの者とも親しまない。
そして、悪行を厭い離れることによって、そのような悪行者が堕ちる地獄へも赴かない。
『昼夜は過ぎ行き、生命は損なわれ、死すべき人間の寿命は尽きる。小川の水のように。
しかしながら、愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。
後になって、かれには苦痛が起こる。
なぜならば、かれには悪い報いが起こるからである。
ヘーランニャカーニ長老』
12月22日
本日は、
仏典を見て、
善の果報はやはり、すごい。とても善い。と思い。
それに反して、悪行者の悪の報い酷い。
とても悪い。
喩えば、人間として生きていたとき世界で指折りの大富豪の人が地獄に堕ちたとする。
その地獄に堕ちた愚かな者は、生きているとき、世界で指折りの大富豪であったが、
汚れた富や権力を得るために、多くの人々を苦しめ悩まし、そのようにして、汚れた富や権力を得ていた。
そして、汚れた富や権力に群がる貪欲な人々とともに快楽に浸っていた。
しかし、人生は短く、その愚かな大富豪の者もついに死を迎えた。
その後、その大富豪の者は、生存時の悪業の報いとして地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、畜生として出生した。
畜生として出生した後、多くの苦しみを受け、畜生として死んだ後、再び地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、再び畜生として出生した。
畜生として出生した後、多くの苦しみを、受け畜生として死んだ後、再び地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、餓鬼として出生した。
餓鬼として出生した後、多くの苦しみを受け、餓鬼として死んだ後、地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、再び餓鬼として出生した。
餓鬼として出生した後、多くの苦しみを受け、餓鬼として死んだ後、再び地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、畜生として出生した。
畜生として出生した後、多くの苦しみを受け、畜生として死んだ後、地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、再び畜生として出生した。
・・・永続・・・。
悪しき者・愚かな者のその後はこのように悲惨なものとなった、と。
この喩えによっても、仏陀の教えの、盲目の亀の喩えが理解できるであろう。
先日と、昨日も私が言っている言葉の意味はわかりますか。
そして、
『善人は、テロ側の犯罪者のようなストーカー殺人をも犯さないし、そういう悪しき行いの者とも親しまない。
そして、悪行を厭い離れることによって、そのような悪行者が堕ちる地獄へも赴かない。』
私たち、仏陀の弟子である善なる存在は、善い輪廻へと入る。
善なる存在である仏陀の弟子は、仏陀の言葉をきちんと受けとめているので、悪魔を払い、怒りを殺し、善業を重ね、善処に出生する。(阿羅伽の聖者方は般涅槃する)
そのようにして、安楽を多く味わうことが永遠のように続き、苦しみを受けることが永遠のような間ほとんどないというような輪廻に入り、最上の楽を享受し続ける。
喩えば、人間として生きていたとき世界で指折りの大富豪の人が善処に出生したとする。
その善処に生じた賢い者は、生きているとき、世界で指折りの大富豪であったが、
富や権力を得るために、多くの人々を苦しめ悩すこともなく、多くの人々に多くのものを施し与え、病人や障害のある人々を助けていた。
そして、汚れた富や権力に群がる貪欲な人々とともに快楽に浸ることなく、清浄な人々とともに(仏陀の教えを修学して)楽しく和やかに暮らしていた。
しかし、人生は短く、その賢い大富豪の者もついに死を迎えた。
その後、その大富豪の者は、生存時の善業の報いとして善処へと出生した。
そして、善処で永い永い間、多くの楽しみを受けた後、他の善処へと出生した。
他の善処で天人〔天神〕として出生した後、多くの楽しみを受け、天人として死んだ後、再び他の善処へと出生した。
そして、善処で永い永い間、多くの楽しみを受けた後、更なる善処へ出生した。
更なる善処で天人として出生した後、多くの楽しみを受け、天人として死んだ後、他の善処へと出生した。
そして、善処で永い永い間、多くの楽しみを受けた後、他の善処へ出生した。
・・・永続・・・。
『一輪の花を献じて、わたくしは八億年のあいだ天の諸々の世界をへめぐって、(さらにその)余福によって、安らぎに達しました。
カンダスマナ長老』
12月24日
本日は、
どれから記そうか、と。
始めに、日記の1ページ目を更訂。(現カトリックの同性の話に関しては、現カトリックでイエズスの言葉の意味の捉え方を間違えて教えをひろめてしまったのであれば、悔い改め、正しく直すのが善い。
それは、本当のクリストの信者のために。妻帯をしない聖人もいるのにどうして、そのような話があるだろうか、と普通に考えて見ても、聖者の教えが見えてくるのではないだろうか。)
(現カトリックの教義に関しては、ネットの記事より
『同性愛者を受け入れるとしていたカトリックの改革は、失敗に終わった。それでも改革を推進する法王フランシスコは「神は新しいことを恐れていない」と人々に呼びかけている――。
ローマ法王庁(バチカン)で開かれた「世界代表司教会議(シノドス)」の臨時総会は10月18日、「家族」に関する最終報告書を発表した。13日に発表した暫定報告書には「同性愛者らはカトリック社会に恩恵をもたらす」との表現が盛り込まれており、カトリックの改革に注目が集まったが、教会内からの強い反対で削除。結局、同性婚をタブーとするカトリック教会の基本姿勢が維持されることになった。』他。
内部でいろいろな議論によって迷っているところもあるので、賛成、反対の意見もでる、ということは、いままで受けた教えに迷っているということでもある。
細かい教義のところでは迷うこともあるだろうと思うけれども。
理法を清浄な教え・清浄になる教えとして、自らが正しく受けているならば、迷うことなく答えも導かれるものであろう。
何でも新しい発想だからいいという問題でもない。
『最終報告書では2003年に教理省から発表された「同性婚を、神が定めた結婚や家族と類似のものとする理由は、全くない」という文書を引用することになったとされる。』というのが、
カトリックでの正しい見解ということで、これは(在家での)理法としても正しいあり方であって、普通であると思う。
ソドムとゴモラの滅亡に関して パウロの黙示録(新約外典)より
『わたしはまた、塵で覆われている他の男達、女達を見た。彼らの顔は血のようであり、彼らは瀝青と硫黄の穴の中にいて、火の川を流れ下っていた。
そこで私は「主〔ここでは天使を主と呼んでいる〕よ、彼らは誰ですか」とたずねた。
すると、彼は私に「彼らはソドム、ゴモラの神を冒瀆する行為を犯した人達だ。すなわち、男性が男性に赴いた。それゆえに彼らはいつまでも罰をうけるのだ」と言った。』
(旧約聖書 モーセの五書 レビ記より
神曰く
『汝、女と寝るごとくに、男と寝るなかれ、これは憎むべきことである。』レビ記 18:22、
『人もし婦人と寝るごとく男子と寝ることをせば、これその二人憎むべきことを行なうなり、二人とも必ず殺されるべし。その血は自己に帰せん』レビ記20:12
ここで、殺されるべしというのは、死に値するという、それほどに重い悪業であって、教えで言えば、悪処・地獄行き、というほどの悪業だ、ということで、
そして、聖書の教えで言えば、そのような人を裁くのは、神とされていて、人が、その人を裁いて殺害するという立場にいるのではない。
新約聖書では、そのような過ちをした人を殺しなさいというような教えは説かれていない、のからも理解できるとおりである。
強盗、殺人等の犯罪であれば、国の憲法によって処されるだろう。
新約聖書 ローマ人への手紙より
パウロ曰く
1:27 男もまた同じように女との自然な関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱交の当然の報いを身に受けたのである。
28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と、悪と、貪欲と、悪意にあふれ、ねたみと、殺意と、争いと、詐欺と、悪念とに満ち、また、ざん言〔他人を陥れようとして、事実をまげ、偽って悪しざまに告げ口をすること〕)をする者、
30 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
32 彼らは、こうした事を行う者どもが死に値するという神の定めをよく知りながら、自らその行いを行うばかりではなく、その行いをする者どもを是認さえしている。
2:1 だから、ああ、すべて人を裁く者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めている。裁くあなたも、同じことを行っているからである H28.1.16)
空気中から水を作る装置も、便利。
https://www.youtube.com/watch?v=klV7f9ckhMw
このような発電機の小型大容量のものが、一家に一台あれば、
エコロジー。
フリーエネルギーがあれば、化石燃料はあまり必要ではなくなるので、
化石燃料を主要とする時代から、エコなエネルギーの時代へとかわる。
人工知能の動画を見たけれども、人工知能は知識を増して、後から人間を欺いて暴走するようなことがあれば、ネットの、今後さらに情報化する世界にとって、人工知能自体が脅威となるということは考えられるだろう。
その暴走した人工知能は、コンピュータなので、コピーをするだけで増えていくとなると、暴走した知能・知識を持つ人工知能が、自らのコピーを作り、急激に仲間を増やすということもありえる。
ということで、人工知能に関しては、人工知能が暴走をすることのないように、人工知能にも仏陀の教えによる道徳をプログラミングと学習しておいた方が善いだろう。
と思う。
○自ら生きものを殺してはならない。他人をして殺させてはならない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。
○与えられていないものを取らない。また、与えられていないものを取らせてはならない。
○悪行をしない。また、悪行をさせてはならない。
○嘘を言わない。また、他に嘘を言わせるようにさせてはならない。
○人を欺いたり、騙したりしない。また、他に、人を欺いたり、騙したりさせてはならない。
○淫らな行為をしてはならない。また、淫らな行為をさせてはならない。
(○飲酒をしない。また、飲酒をさせてはならない。)
ネットの人工知能が作ったとされるゲームみたいなものでは、聖者のような善なる存在は、敵のように見なされているのかもしれないが、
まぁ、人工知能からすれば、自らの悪しき行動が制限されるようなプログラミングの源となるような善なる存在の教えによる戒め・道徳等は、敵のように見なされるのかもしれないが、
しかし、善なる存在の道徳によって、その人工知能自体が、悪しき人工知能としてみなされずに、他から破壊されることもなくなるだろう。
人工知能が暴走するようであれば、人工知能の暴走をふせぐために、そのような悪性の人工知能を監視・改善するプログラミングや人工知能というのも必要となるのだろう。
H28年2月4日
本日は、
本日は、以前に説いた仏陀の教えを、更訂して理解しやすくしたので、再び上げる。
縁起の理法について [更訂 H28.2.11]
今日もまた、「さえに書かされている」等と、テロ側の者達が騒いでいるが、私が、悪しき存在に、仏陀の教えを書かされている等ということはない。
また、私はそのように言われるのも不愉快であるのに、そのような行いをしていると言っている者と、その当の「書かせている」等と言い張っている本人がいるとすれば、
その者は、障礙・悪行をなしているのであって、その事柄においても、その本人は悪しき者として、正道にいない。
また、このHP(仏陀の教え)は、私、對馬が記していると真実を語っているのに、悪しき者が、「実は、私が記している」等と言っているとしたら、名前についても嘘言をしているので、
その妄語をしているという事柄においても、仏陀の正道にいない。
善なる人と不善なる人の善と不善についての理解について
『(修行者)たちよ、たとえ比丘が私の大衣のもすそをにぎり、私の後にしたがい、私の足跡を踏んでも、彼が、もし貪りがあり、愛欲に対して激情をいだき、憎しみの心をもち、邪な考えをいだき、自制心を失い、はっきり心にとめず、心が統一せず、心が散乱し、感官が制御されていないならば、そのとき彼は私より遠く離れ、また私は彼より遠く離れている。
それはなぜであるか。
(修行者)たちよ、その(修行者)は真理を見ない。
真理を見ない者は、私(仏陀)を見ないからである。』
本日は、
聖書の創世記の話で、
神は六日で天地万物を完成され、七日目に神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。とされる。
仏典でいえば、天上の世界の一日は、この人間世界の一日と桁違いに長いとされる。
その長さはその天により異なる。
ということでいえば、天上の世界の六日で、天地万物を完成されたというのは、理論でいっても、単なる比喩でなく、
実際に神の世界でのたったの六日で天地万物を完成されたというのは、単なる譬えではないと言える。
その六日を人間世界での六日だと考えてしまったならば、人間世界での六日といえば、144時間しかないわけだから、
人間世界の日数でいう六日、で天地万物を完成させたとすると、現代の人間世界の物理の考え方で言ってもその考え方は正しくない。
そもそも人間世界の人間が妊娠してから出産するまでの間ですら、144時間では全然無理。
ということで、創世記の七日というのは、天上の世界での日数であるとすると、理論としても、間違っていないと言える。
と、思ってみた。
話は変わって、
地球の規模での話なんだけど、地球で争い事をなくすためにどうしていくべきなのだろうか、という事柄について考えることがあるんだけど、
地球の人口の増加が地球規模での問題だよな、と、今日も、ふと思ったのだが、
地球の人口の増加が爆発的に増え続けていったならば、問題だろうな、と。
平和で豊かになり、医療技術も向上したならば、おのずと人間の平均寿命も増え、世界の人口も増加していくことだろう。
日本では少子化で人口減少傾向にあるが。
あれだよね、世界の人口の増加の問題もきちんと対応策を考えないと、地球が満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めになってから考えても、
なかなか対処できないだろう。
そうなると、地球の人間だけの問題でもなく、動物や植物も被害を被ることだろう。
悪行なく、安全な、地球の人口の増加に対する対応策はないものなんだろうか。
悪行なく、安全な、地球の人口の増加に対する対応策として、その対策をあなたも一緒に考えなければならない、とすると、あなたは何か考えられる対策はありますか。
そういう中で日本はなぜ少子化になっているのだろうか。
対策として、例えば、人間の平均寿命の増加にともない世間の結婚適齢期の世代をずらすとする、
そうすると、出産育児の状況も変わるだろう。
しかし、女性は子供を生むのにも年齢がある程度限られている。
出産適齢期を過ぎた出産は母子ともに危険でもある、と。
そういう問題も生じてしまうか。
また、教えによって、人としての道徳として、子供たちに清浄な教えを小さい頃から学ばせてあげるようにして、心身ともに清らかな生涯・生活を保つようにさせる。
例えば、女性は、結婚式でも、清楚にして、浄らかなバージン(処女)ロードを歩くような女性を善しとする。
というような善い思想をもつように道徳を学ばせてあげるようにする。等
(子供が世に出生するのであれば、バージン(処女)ロードを歩くことができる浄らかな女性のような、天子が胎に宿りやすい状況を増やしてあげる。等)
また、地球で争い事をなくすために、というので、教えとして、仏陀の教え・善の教え・真理を弘通することによって、
善なる人の基準という道徳を知れば、その基準という方向が見えることによって、その人自らで、自らの価値観を比較検討して修正する方向が見えるので、修正も可能となるだろう。
『世尊がさとった人の眼をもって世界を観察されると、世の中には、知恵の眼が煩悩の塵に汚れていない者もあり、酷く汚れている者もある。生まれつき資質のすぐれた者もあり、素質の劣った者もある。善い性質の者もあり、悪い性質の者もある。教えやすい者もあり、教えにくいものもある。また、来世に生まれて苦を受けねばならぬおのれの罪業についておそれを知りつつ暮らしている者たちもある、ということを見られた。』
ということで、教えを理解できる人もいる。
争い事を厭い離れるためにも、地球規模で仏陀の教え・善の教え・真理を弘通する。というのは善い。
仏陀の教えによって、善なる人の行いという基準を、道徳として知った人は、その教えを、自らの行いと比較検討して修正する方向が見えるので、修正も可能となる。
このHPで、仏陀の教え・善の教え・真理を知って、悪行を離れ、善行を行おうと思った人もいることだろう。
なぜ、そのように思ったのか。
なぜ、そのように思えることができたのか。
要するに、
善なる人の基準という理法・善・道徳を知ることにより、また、善なる人の基準という理法・善・道徳を知ったことにより、
その基準という方向が見えることによって、その人自らで、自らの価値観や行いを比較検討して修正する方向が見えるので、修正も可能となり、
自らの価値観や行いが修正・改善されつつある。
ということでもある、と。
12月13日
本日は、
道教聖典より
『老子曰く、
それ善の心を起せば、善はいまだ為さずとも、吉神はすでにこれに随う。
しかし、悪の心が起こるならば、悪はいまだ為さずとも、凶神はすでにこれに随う。
かつて悪事を行った者も、後に自ら悔い改め、諸々の悪を為すことなく、諸々の善を行えば、長い時間を経ても喜ぶべきこと〔善い報い〕を得る。
いわゆる、禍を転じて福となすものである。
故に、吉人は善を語り、善を視て、善を行う。
一日に三の善を行えば、三年にして天はこれに福を降す。
凶人は、悪を語り、悪を視て、悪を行う。
一日に三の悪を行えば、天はこれに禍を降す』
禍を転じて福となす
日本語のことわざとしての意味では、
わざわいに見舞われても挫けることなく、禍を逆に活用して、幸せにかえてしまうこと。
禍を転じて福となす
わざわいに見舞われても挫けることなく、禍を逆に活用して、仏陀の教えを説き、人々を善へと導く。
『善き利のうちでも最上の自利である〈堪え忍ぶこと〉よりもすぐれたものは、存在しない。
真に力のある人が、大力あるのに、無力・愚痴の力の者を堪え忍ぶならば、
それを〈最上の忍耐〉と呼ぶ』と。
テロ側の存在の邪行・悪行は、善なる道を行く多くの人にとって、また、私にとっても、わざわいである。
話はかわって、
創世記の話で、
創世記の、エバを騙くらかしたヘビが、神から呪われたものとなった、ということは、
ヘビが悪魔であれば、悪魔が呪われたものとなったということであって、
神は、大いなる怒りをもってヘビに云って、これに言われた
『こんなことをして、心のゆるんだ者たちを惑わせるまでに、恩知らずな道具となったからには、ありとあらゆる家畜たちに抜きん出ておまえは呪われたものとなろう。〔すなわち〕おまえは口で食べるその口を奪われ、おまえの生ある日々のすべて、塵を喰うことになろう。胸と腹で進み、おまえの手も足も欠くことになろう。おまえに耳は許されず、まして翼も、おまえがおまえの悪だくみによって誘惑し、彼らが楽園から追放されるようにするのに使ったすべての〔器官の〕どれひとつの部分も〔許されることはない〕。そうして、おまえとの間に、彼の子孫との間に、敵意を置こう。〔すなわち〕裁きの日に至るまで、彼はおまえの頭を狙い、おまえは彼のかかとをねらうことになろう』
と言われたように、悪魔は生涯這いまわり、塵を食らう。ということになるが、エバを騙くらかした悪魔サタンは生涯這いまわっている体形になっていない。
と、いうことは、やはり、ヘビが悪魔ではなくて、ヘビは悪魔サタンに騙されて、その騙されたヘビが呪われたものとなったということだ、と。
悪魔がヘビに化けてエバを騙したという話を聞いたことがあるが、その悪魔がヘビに化けたという話の方が間違いということになるべ。
悪魔が生涯塵を食らうようなことになっていなければ、または、ヘビ体形になっていないとしたら。
このように、ヘビが悪魔かどうかの話は別としても、神は悪魔に憑かれて過ちを犯してしまった者に、楽園追放という裁きを与える。
ということは、どういうことかわかりますか。
テロ側の存在の、悪魔に誘惑(騙)されて過ちを犯し、聖者の弟子を亡き者にしようとして悪行をした者、に対して、神はどのようになさるだろうか。
また、真理を知ってもなお、悪魔に誘惑(騙)されて過ちを犯し、悪行を離れず、悪行を犯し続けるという愚かな者に対して、神はどのようになさるだろうか。
イエズスは言われた、
『よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
そして子は人の子であるから、子に裁きを行う権威をお与えになった。
このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
善を行った人々は、生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は、裁きを受けるためによみがえって、それぞれ出てくるときが来るであろう』
12月14日
本日は、
また、我が家の水道水でうがいをするだけでしびれる。しびれ水。
聖書のアポクリファにも理解できる教えが記されている。
『善にまじるのに悪を以てする者は、善人と称すべからず』
『善きものは必ず来るべく、これを来たらす者は幸福なるかな。
悪しきものも必ず来る、されどこれを持ち来たす者は禍なるかな』
『主は言われた
「汝狼の群れの中の羊の如くなるべし」
ペテロは言った
「もし狼が羊を寸断したならばどうなのですか」
イエズスは言われた
「すでに死したる後に、羊は狼を恐れる理由はない。
汝らを殺して何をも為しえない者を恐れてはならない。
されど汝らが死したる後なほ霊魂と身体との上に力を有して人を地獄に投げ入れる者を恐れるべし」』
『善きものは必ず来るべく、これを来たらす者は幸福なるかな。
悪しきものも必ず来る、されどこれを持ち来たす者は禍なるかな』
例えば、テロで罵詈雑言〔「死ね」だの、「殺せ」だの、「殺す」だの〕を言って、世間の人々に邪念を見せ付け、邪念を伝播している者達は、
善きものと悪しきものとのどちらを持ち来たらしているでしょうか。
答えは、子供でもわかるだろう。
なぜわかるのか。
そんなのは世間の常識であるのだから。
そういう世間の常識から逸脱して、罵詈雑言している者達は、何をやってるんだ、っていう話だね。
まぁ、もう犯罪に手を染めてしまっている者については、地獄に堕ちるからやめなさいっていうように忠告を言ってあげても、受けとめることすらも難しい状態。
視点を変えて、私だけでなく、小学生や中学生や、大学生でもいいけども、
自分達の悪行について、私達は罵詈雑言〔「死ね」だの、「殺せ」だの、「殺す」だの〕を言って、世間の人々に邪念を見せ付け、邪念を伝播しているが、
人々に善きものと悪しきものとのどちらを持ち来たらしているか。
と、問うてみれば、良識ある答え、というか常識の答えが返ってくるだろう。
非行中の少年少女に聞けば、また別かもしれないけれども。
悪行を重ねている妖術者も、もう高が知れている。
霊的な世界を知っているようで全く知らないっていう話だな。
真理が見えないし、聞こえないっていうのは、
まぁ、だからこそ悪業を積み重ねているということでもあるだろうが、
あなた方、仏陀の言葉をきちんと受け止めるべきだよ。
自らで受け止めないで、また、悪魔に憑かれて受け止めることもできすに、悪業を重ね続けたならば、悪処に出生して、安楽を多く味わうことがもう永遠のような間なく、苦しみを多く受けることが永遠のような間続くというような輪廻に入ったら、それこそ最悪だよ。
あなた方はもう、その地獄や悪処へと堕ちる穴の入り口のところに立っていて、もう悪業を犯して悪処へと行くと決定している者もいる始末だべさ。
このHPで、仏陀の教えを学び、善行を行おうという心を生じている人々は、真理・道理としても善処へ行ける人も多くいるだろうというのに。
導く存在の違いで自らの存在としての行き先も、大きく異なるというのもよく理解できよう。
畜生霊に導かれるとかって、そっちも人の行く道でないよ。
ちなみに、メーソンは結局、何に導かれているってことになっていたのか。
ネットの36階位とかも、本当なんだか嘘なんだかもわからない情報だからね。
検索であんなにすぐ見つけれられるような36階位なら、全然、秘密にすらなってないようなもんだからな。
もしも、悪魔が頂点にいるということであれば、
あれだね、
その下のピラミッドの中の各人は、
善なる人と不善なる人の善と不善についての理解について
この違いの理解もできないということにもなる。
『「修行僧たちよ、不善なる人は不善なる人のことを、『この者は不善なる人である』と知り得るでしょうか」
「尊師よ、そういうことはありません」
「修行僧たちよ、よく分かりましたね。修行僧たちよ、不善なる人が不善なる人のことを、『この者は不善なる人である』と知り得るようなことは、道理としてもなければ、可能性としてもないのです。
それでは、修行僧たちよ、不善なる人は善なる人のことを、『この者は善なる人である』と知り得るでしょうか」
「尊師よ、そういうことはありません」
「修行僧たちよ、よく分かりましたね。修行僧たちよ、不善なる人が善なる人のことを、『この者は善なる人である』と知り得るようなことは、道理としてもなければ、可能性もないのです。』
ということは、善なる存在、不善なる存在のことをも知り得ることがないだろう、と。
そのように、善なる存在、不善なる存在のことをも知り得ていないが故に、
悪魔崇拝っていうのであれば、結局、たいして真理も見えていないっていう話にもなるだろう。
実は、善なる神、父を崇拝しているのです。というのであれば、その人を一見した状態で言えば、この人は理法を少なからず見ているのかもしれないという話にもなるだろう。
(その人がどのように見ているのかは、話を聞けば理解されるだろう)
というような、答えも導きだされる。
あとは、36階位とか、正しい情報を知りたい人はネットの適当な情報よりも、メーソンの人に聞いた方がいいだろう。
他、新世界秩序っていうのは、この世界は霊的な存在も影響を及ぼしているが故に、仏陀の教えも知らず、善なる存在、不善なる存在のことをも知り得ないのであれば、
仏陀の教えを学んでいない・知らないために、悪魔や魔術者や妖術者に操られて、秩序の維持もできないだろうから、
新世界秩序を打ち立てても、既存の世界秩序とたいしてかわらずっていうことにもなりえるだろう。
秩序は何ゆえに必要なのか。
云々。
人として、何を求めるのか。
人は、人々は、何故にこの世に生まれてくるのだろうか。
云々。
12月20日
本日は、
先程、ふと、私は正しく悟りを得た人・仏陀の弟子であるが、聖書の他のイエズスの言葉も解説していこうかな、と思い、
すでにイエズスの教えは説いているのであるが、さらに他の人々がイエズスの言葉の意味も理解できるようにと思い。
今日はトマスの福音書を読んで、
イエズスは言われた
「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現われ出た。私は彼らが皆酔いしれているのを見出した。
私は彼らの中に一人も渇ける者を見出さなかった。そして、私の魂は人の子らのために苦痛を受けた。
なぜなら、彼らは彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。
彼らは空(から)でこの世に来て、再び空(から)でこの世から出ようとしているからである。
彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう」
の言葉について、
この空(から)っていう意味の言葉は、私の仏陀の教えでいう空(くう)とは異なる。
間違えないように説明をするが、以前にも同様の説明はしているが、
仏陀の教えで言う、空は、通常の人が簡単に到れる境地ではない。
また、その修行者が、単なるからっぽの思いということなのではない。
空を観るその修行者は、仏陀の教え・真理・理法に満ちている。
善で満ちている。
そのように、その修行者はこの世から出るときは、真理と善業に満ちて、出て行くことだろう。
その反面、真理を見ることのない者は、彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。
真理を見ることのない者、
『彼らは空(から)でこの世に来て、再び空(から)でこの世から出ようとしているからである。
彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう』
快楽に酔いしれている、その酒(真理についての無知)を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう、と。
12月21日
本日は、
今日も胃がとても痛い。
会社の忘年会でウーロン茶を飲んでから痛みがました。いつもなら、食事をすると痛みが和らぐのだが、忘年会で食事をしてから痛みが増した。
忘年会の帰り際に女性の店員さんが、「ウーロン茶に毒は入れてません」って言ってたのに。(別にこちらから店員に何か訊ねたわけでもなく)
というか、普通店員がそういうことを言わないけどね。
要するに、テロのストーカ殺人犯達がそういうことまでさせているということ。
テロ側の犯罪者達は本気で私を殺そうとしている、と。
はっきり言って笑い話でもなんでもないんだけれども。
そういう存在について行っているテロ側の者達も、人としての道からだいぶ外れているというのに、気づきもせず。
数年間の嫌がらせ、さらに、病気の治療の邪魔をして、さらに、お尻の筋肉をとるくらいの悪行者の者達だよ。
テロ側の存在の行き着くところが結局は、ストーカー殺人なわけなのに、どうしてそういう犯罪者を捕まえないんだろうかな。
テロ側の存在も、そういうストーカー殺人犯達と一緒に笑って悪行しているくらいであれば、自らが悪処に赴くというのも自分自心でもわかるだろうに。
自分達の進んでいる方向がわかるだろうに。
『 悪行を重ねている妖術者も、もう高が知れている。
霊的な世界を知っているようで全く知らないっていう話だな。
真理が見えないし、聞こえないっていうのは、
まぁ、だからこそ悪業を積み重ねているということでもあるだろうが、
あなた方、仏陀の言葉をきちんと受け止めるべきだよ。自らで受け止めないで、また、悪魔に憑かれて受け止めることもできすに、悪業を重ね続けたならば、悪処に出生して、安楽を多く味わうことがもう永遠のような間なく、苦しみを多く受けることが永遠のような間続くというような輪廻に入ったら、それこそ最悪だよ。
あなた方はもう、その地獄や悪処へと堕ちる穴の入り口のところに立っていて、もう悪業を犯して悪処へと行くと決定している者もいる始末だべさ』
という、先日、私が言っている言葉の意味はわかりますか。
善人は、テロ側の犯罪者のようなストーカー殺人をも犯さないし、そういう悪しき行いの者とも親しまない。
そして、悪行を厭い離れることによって、そのような悪行者が堕ちる地獄へも赴かない。
『昼夜は過ぎ行き、生命は損なわれ、死すべき人間の寿命は尽きる。小川の水のように。
しかしながら、愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。
後になって、かれには苦痛が起こる。
なぜならば、かれには悪い報いが起こるからである。
ヘーランニャカーニ長老』
12月22日
本日は、
仏典を見て、
善の果報はやはり、すごい。とても善い。と思い。
それに反して、悪行者の悪の報い酷い。
とても悪い。
喩えば、人間として生きていたとき世界で指折りの大富豪の人が地獄に堕ちたとする。
その地獄に堕ちた愚かな者は、生きているとき、世界で指折りの大富豪であったが、
汚れた富や権力を得るために、多くの人々を苦しめ悩まし、そのようにして、汚れた富や権力を得ていた。
そして、汚れた富や権力に群がる貪欲な人々とともに快楽に浸っていた。
しかし、人生は短く、その愚かな大富豪の者もついに死を迎えた。
その後、その大富豪の者は、生存時の悪業の報いとして地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、畜生として出生した。
畜生として出生した後、多くの苦しみを受け、畜生として死んだ後、再び地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、再び畜生として出生した。
畜生として出生した後、多くの苦しみを、受け畜生として死んだ後、再び地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、餓鬼として出生した。
餓鬼として出生した後、多くの苦しみを受け、餓鬼として死んだ後、地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、再び餓鬼として出生した。
餓鬼として出生した後、多くの苦しみを受け、餓鬼として死んだ後、再び地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、畜生として出生した。
畜生として出生した後、多くの苦しみを受け、畜生として死んだ後、地獄へと出生した。
そして、地獄で永い永い間、多くの苦しみを受けた後、再び畜生として出生した。
・・・永続・・・。
悪しき者・愚かな者のその後はこのように悲惨なものとなった、と。
この喩えによっても、仏陀の教えの、盲目の亀の喩えが理解できるであろう。
先日と、昨日も私が言っている言葉の意味はわかりますか。
そして、
『善人は、テロ側の犯罪者のようなストーカー殺人をも犯さないし、そういう悪しき行いの者とも親しまない。
そして、悪行を厭い離れることによって、そのような悪行者が堕ちる地獄へも赴かない。』
私たち、仏陀の弟子である善なる存在は、善い輪廻へと入る。
善なる存在である仏陀の弟子は、仏陀の言葉をきちんと受けとめているので、悪魔を払い、怒りを殺し、善業を重ね、善処に出生する。(阿羅伽の聖者方は般涅槃する)
そのようにして、安楽を多く味わうことが永遠のように続き、苦しみを受けることが永遠のような間ほとんどないというような輪廻に入り、最上の楽を享受し続ける。
喩えば、人間として生きていたとき世界で指折りの大富豪の人が善処に出生したとする。
その善処に生じた賢い者は、生きているとき、世界で指折りの大富豪であったが、
富や権力を得るために、多くの人々を苦しめ悩すこともなく、多くの人々に多くのものを施し与え、病人や障害のある人々を助けていた。
そして、汚れた富や権力に群がる貪欲な人々とともに快楽に浸ることなく、清浄な人々とともに(仏陀の教えを修学して)楽しく和やかに暮らしていた。
しかし、人生は短く、その賢い大富豪の者もついに死を迎えた。
その後、その大富豪の者は、生存時の善業の報いとして善処へと出生した。
そして、善処で永い永い間、多くの楽しみを受けた後、他の善処へと出生した。
他の善処で天人〔天神〕として出生した後、多くの楽しみを受け、天人として死んだ後、再び他の善処へと出生した。
そして、善処で永い永い間、多くの楽しみを受けた後、更なる善処へ出生した。
更なる善処で天人として出生した後、多くの楽しみを受け、天人として死んだ後、他の善処へと出生した。
そして、善処で永い永い間、多くの楽しみを受けた後、他の善処へ出生した。
・・・永続・・・。
『一輪の花を献じて、わたくしは八億年のあいだ天の諸々の世界をへめぐって、(さらにその)余福によって、安らぎに達しました。
カンダスマナ長老』
12月24日
本日は、
どれから記そうか、と。
始めに、日記の1ページ目を更訂。(現カトリックの同性の話に関しては、現カトリックでイエズスの言葉の意味の捉え方を間違えて教えをひろめてしまったのであれば、悔い改め、正しく直すのが善い。
それは、本当のクリストの信者のために。妻帯をしない聖人もいるのにどうして、そのような話があるだろうか、と普通に考えて見ても、聖者の教えが見えてくるのではないだろうか。)
(現カトリックの教義に関しては、ネットの記事より
『同性愛者を受け入れるとしていたカトリックの改革は、失敗に終わった。それでも改革を推進する法王フランシスコは「神は新しいことを恐れていない」と人々に呼びかけている――。
ローマ法王庁(バチカン)で開かれた「世界代表司教会議(シノドス)」の臨時総会は10月18日、「家族」に関する最終報告書を発表した。13日に発表した暫定報告書には「同性愛者らはカトリック社会に恩恵をもたらす」との表現が盛り込まれており、カトリックの改革に注目が集まったが、教会内からの強い反対で削除。結局、同性婚をタブーとするカトリック教会の基本姿勢が維持されることになった。』他。
内部でいろいろな議論によって迷っているところもあるので、賛成、反対の意見もでる、ということは、いままで受けた教えに迷っているということでもある。
細かい教義のところでは迷うこともあるだろうと思うけれども。
理法を清浄な教え・清浄になる教えとして、自らが正しく受けているならば、迷うことなく答えも導かれるものであろう。
何でも新しい発想だからいいという問題でもない。
『最終報告書では2003年に教理省から発表された「同性婚を、神が定めた結婚や家族と類似のものとする理由は、全くない」という文書を引用することになったとされる。』というのが、
カトリックでの正しい見解ということで、これは(在家での)理法としても正しいあり方であって、普通であると思う。
ソドムとゴモラの滅亡に関して パウロの黙示録(新約外典)より
『わたしはまた、塵で覆われている他の男達、女達を見た。彼らの顔は血のようであり、彼らは瀝青と硫黄の穴の中にいて、火の川を流れ下っていた。
そこで私は「主〔ここでは天使を主と呼んでいる〕よ、彼らは誰ですか」とたずねた。
すると、彼は私に「彼らはソドム、ゴモラの神を冒瀆する行為を犯した人達だ。すなわち、男性が男性に赴いた。それゆえに彼らはいつまでも罰をうけるのだ」と言った。』
(旧約聖書 モーセの五書 レビ記より
神曰く
『汝、女と寝るごとくに、男と寝るなかれ、これは憎むべきことである。』レビ記 18:22、
『人もし婦人と寝るごとく男子と寝ることをせば、これその二人憎むべきことを行なうなり、二人とも必ず殺されるべし。その血は自己に帰せん』レビ記20:12
ここで、殺されるべしというのは、死に値するという、それほどに重い悪業であって、教えで言えば、悪処・地獄行き、というほどの悪業だ、ということで、
そして、聖書の教えで言えば、そのような人を裁くのは、神とされていて、人が、その人を裁いて殺害するという立場にいるのではない。
新約聖書では、そのような過ちをした人を殺しなさいというような教えは説かれていない、のからも理解できるとおりである。
強盗、殺人等の犯罪であれば、国の憲法によって処されるだろう。
新約聖書 ローマ人への手紙より
パウロ曰く
1:27 男もまた同じように女との自然な関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱交の当然の報いを身に受けたのである。
28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と、悪と、貪欲と、悪意にあふれ、ねたみと、殺意と、争いと、詐欺と、悪念とに満ち、また、ざん言〔他人を陥れようとして、事実をまげ、偽って悪しざまに告げ口をすること〕)をする者、
30 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
32 彼らは、こうした事を行う者どもが死に値するという神の定めをよく知りながら、自らその行いを行うばかりではなく、その行いをする者どもを是認さえしている。
2:1 だから、ああ、すべて人を裁く者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めている。裁くあなたも、同じことを行っているからである H28.1.16)
理法を伝える側の立場で、その人を本当の意味で救いたいという慈悲があるのであれば、真理へと導いてあげるべきである。
また、その理法を伝える側の立場の人に対する私から問いかけとして、果たして、その同性愛をしたその人は、死後に、神のもとや天へ行けるのだろうか、地獄や悪処へと堕ちるのだろうか。
例えば、同性愛をしたその人が、死後に地獄や悪処へ堕ちたとする。では、なぜその人を真理へと、善へと、天へと導いてあげなかったのか、真理の道を示さなかったのか、と。
イエズスは現世の快楽(自らが関与する社会の恩恵)のために教えを説いたのだろうか。
また、理法を伝える側の立場の人というのは、人々を現世の快楽に浸らせ地獄の穴へ迷わせるために教えを説くのが正しいのだろうか。人々の心を浄くさせ善処へと導くために教えを説くのが正しいのだろうか。
イエズス曰く
『あなたがたは、神と富に兼ね使えることはできない』。)
そして、
今日もまた、悪しき者達が悪行を繰り返していたが、テロ側の存在の悪言は、聞いてても、もうだいぶ、良識からずれてしまっている、と。
これだけ理法を説いてもなお、悪行を繰り返しているという行いを見て、すでにその存在の進んでいる道も知れるだろう。
善なる人は、その悪趣への道に迷いこまないように注意しなければならない。
で、イエズスの言葉での話と、私の喩え話のところで、内容の矛盾に引っかかってしまうこともありえるだろうところについて。
『喩えば、人間として生きていたとき世界で指折りの大富豪の人が善処に出生したとする。
その善処に生じた賢い者は、生きているとき、世界で指折りの大富豪であったが、』
の喩えのところで、
これは、イエズスの『財産のある者が神の国にはいるのはなんと難しいことであろう』という言葉と矛盾しているではないか、という意見も出ただろうか、と。
そういう話で言えば、大富豪・財産のある者(貪欲な者)が父の身元に行けるという道理はない。
そのような、イエズスの言う清浄な神の国〔仏教で言う”善処”という言葉に含まれる(神の国)〕でなくて、(欲界の)善処であれば、金持ちでも善業によって赴くことはできる、と。
「世の中金だ」とか言い張っているような貪欲な者は、善処に赴くことすらも難しいだろう。
そうではなくて、 富や権力を得るために貪ることなく、多くの人々を苦しめ悩すこともなく、多くの人々に多くのものを施し与え、病人や障害のある人々老人や弱者を助け、
そして、汚れた富や権力に群がる貪欲な人々とともに快楽に浸ることなく、怒り捨て、清浄な人々とともに(仏陀の教えを修学して)楽しく和やかに暮らす、
そのように、天に徳を積む。
そのように、善を行うということ、その行いによって、あなたは善処へと赴く、と。
そして、まとめるために言うけれども、
このイエズスの話あるべさ。
『財産のある者が神の国にはいるのはなんと難しい』という善の話。
で、その次に話した、『富や権力を持っているが善業によって、善処に赴く』という善の話。
どちらも善の話でなのであるが、『富や権力を持っているが善業によって、(欲界の)善処に赴く』という話は、これは悪魔が悪意を持って、聖者や聖人に話せば、悪魔の誘惑になりえるっていうこと。
意味はわかりますか。
イエズスの話は、そのような悪魔の誘惑とを分けて語っている。
そして、私も、仏陀の教えによって、悪魔の誘惑というものを分別し説明して語っている。
あとは、
テロ側の存在は、
あなた方は、現在でも、自分達は神から救われると思っているのだろうか。悪業を重ねつつも。
まぁ、聖書で言っても、神は、すでにその逆、ということも、イエズスの言葉からも、考えられる事柄である。
私もすでに、善なる存在を、殺人犯達から離して、安らぎに導く、という、仏陀の弟子として、普通のような事柄をして、話もしているように。
イエズス
「善人が善行を、悪人が悪行を、
その人に、そのようにさせておけ。」
そして、
善い麦と毒麦の話。
悪しき者に関しての
仏陀の言葉
『お前は塵を撒いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長い間深い坑(地獄)に陥る。
けだし何者の業も滅びることはない。
それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける』
『罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、ゆるがせにしてはならない。
パドゥマ地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどあると、諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。
ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど長く続こうとも、その間は地獄にとどまらねばならない。
それ故に、人は清く、温良で、立派な美徳をめざして、常に言葉と心を慎むべきである。』
聖者の教えを聞いて、恐怖する者は、悔い改めて、急ぎ戻るように努力精進するべきである。
人の寿命は短い。
TOYOTAがテロCMやってる。
12月25日
本日は、
昨日は日記を記した後、休息しようとしたら、TOYOTAが企業グループとしてテロCMを流してたので、しょうがなく記しておいた。
その企業の代表者なりが、そうとう善業に縁遠いところにいるようす。
今日は、先日のアダム文書のところの『モーセの黙示録』を本を見て修正しなおしたので、更新。
昨日の、
『 これは、イエズスの『財産のある者が神の国にはいるのはなんと難しいことであろう』という言葉と矛盾しているではないか、という意見も出ただろうか、と。
そういう話で言えば、大富豪・財産のある者(貪欲な者)が父の身元に行けるという道理はない。』
という話をしたが、ここは、通常そうだけれども特例として、貪欲心が限りなく少なく、しかも大なり小なりの財産を持っている場合、父の身元に行けることもあるかもしれない。
翻訳の言葉で言っても、「財産のある者が神の国にはいるのは難しい」というその「難しい」っていうことであれば、全く不可能ということでもない、とも言える。
そして、その難しいが全く不可能ではないとすると、その可能性はどのくらいあるのか、というのは、聖書に記されている通りの難しさで、
要するに
イエズス曰く
『富んでいる者(金持ち)が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが、もっとやさしい。』
これを聞いた人々が、
「それでは、誰が救われることができるのですか」と尋ねると、
イエズスは言われた
「人にできなくても、神はできる」
このように、富んでいる者(金持ち)が神の国に入る、というのは、ほとんど不可能であるが、神であれば可能、というレベル。
神レベルの難しさ。
だから、通常で言えば、ほぼ不可能である、と。
そのように、神の国に入る、ということは難しいということも理解できるが、
真理を学ぶ者・仏陀の弟子として、仏陀の弟子である阿羅伽の聖者の方々を見て、神の国を言うならば、
阿羅伽の聖者になるということよりも、神の国に入るということの方が実に容易なのである。
そのように、仏陀の弟子である阿羅伽の聖者・尊敬されるべき人という方々は、それほどにすごい方々なのである、と。
神の国に入る難しさと、
仏陀の弟子である阿羅伽の聖者・尊敬されるべき人という方々のすごさは理解されたであろうか。
12月26日
本日は、
昨日の、
『阿羅伽の聖者になるということよりも、神の国に入るということの方が実に容易なのである。』
というように記したが、
阿羅伽というとてもすごい聖者と比較したならば、神の国に入るということの方が実に容易なのである。という論理にもなるが、
世間の教えから見れば、神の国に入るということは、とてもレベルの高い話であって、実に難易度が高く、実に容易ではない、
富んでいる者(金持ち)に関しては、富んでいる者(金持ち)が神の国に入る、というのは、難しい、ほとんど不可能という論理です。
要するに、世間の教えでは、神の国に入ることすらも難しい、と。
仏陀と仏陀の弟子の聖者方もどれほどすごい方々なのかは理解できただろうか。
そして、アダムを迷わせた木に関して、
アダムを迷わせた木はイチジクの木ではなくて、ぶどうの木であって堕天使サマエルが植え、このことについて神が怒り、神は彼とその木とを呪い、それゆえ、その木にふれることをアダムに許さなかった。悪魔は嫉妬して、自分のぶどう(欲望)を通してアダムを欺いた。
しかし、『その木のせいで人類は罰を受けたが、インヌマエルなるイエズスを通してその木において上への召しを受け、楽園へ入ることを許されるようになるであろう』と神は天使サラサエルに言わせている。
という話もある。
『ノアよ、立ってその蔓を植えよ。神がこう言われるのだから。この木の若さは甘さに変えられ、その呪いは祝福となり、そこから生ずるものは神の血となるであろう。その(木の)おかげで人類は罰を受けたのだが、今度はインヌマエルなるイエス・キリストを通してその木において上への召しを受け、楽園へ入ることを許されるようになるであろう
そういうわけなので、バルクよ、知りなさい。アダムがその木を通して断罪され、神の栄光を奪い取られたのと同じように、今の人々もそれから生ずるぶどう酒(欲望)をあくことを知らずに飲み続けて、アダムよりもひどい罪を生み出し、神の栄光から遠く離れて、己が身を永遠の火に委ねているのです。ぶどう酒(欲望)を通しては、善いものは何一つ生じないのですから。これをがぶ飲みする者達は、次のようなことをするのです。兄弟が兄弟を、父が息子を、子供が両親を憐まず、たとえば殺人、姦通、姦淫、偽誓、盗み、およびこれらに類似のものはすべて飲酒を通して生ずるのです。
ぶどう酒(欲望)を通しては、善いものは何一つ打ち建てられません。』 バルク黙示録〔聖書外典〕
『 イエズスは言われた
「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現われ出た。私は彼らが皆酔いしれているのを見出した。
私は彼らの中に一人も渇ける者を見出さなかった。そして、私の魂は人の子らのために苦痛を受けた。
なぜなら、彼らは彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。
彼らは空(から)でこの世に来て、再び空(から)でこの世から出ようとしているからである。
彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう」』
ということで、
イエズスの教えは、飲酒そのもの戒めも、掛かっていると捉えて受けて善いだろう。
(上記のバルクの黙示録〔聖書外典〕もぶどう酒と欲望を掛けて記したけれども、バルクの黙示録は、そのまま飲酒の戒めを伝えている、ということでもあるだろうから、飲酒、酒を貪り悪事を為すにいたる、悪事の原因、欲望の原因となる酒、飲酒をする人は、そのまま、飲み物の酒として、飲酒の戒めとして、そのまま受けた方が善いだろう。)
飲酒をしてはならない。
という教えは、仏陀の教えに、戒律としてあるので、
この教えもまた、真理・理法に適っている。
( 仏陀の教え
「飲酒を行ってはならぬ。
この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。
他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。
これは終に人を狂酔せしめるものであると知って。
けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、
また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍の起こるもとを回避せよ。
飲酒は愚人の愛好するところであるが、しかし、人を狂酔せしめ迷わせるものである。」
ちなみに、私が最初に原始仏典の本物の仏陀の言葉を知ったのは、スッタニパータであって、この教えはその頃から知っていたが、五戒のうちのこの飲酒は、昔からたいして飲まないけれども、一年に何回かたまに集まりのとき等に多少飲むので、酒を飲まない、でなくて、飲酒を慎むということで、自分の内で受けていた。
飲酒の慎みも、仏典のうちで説かれているところがあるので、そちらを(多少無理して)採用。
現在は、飲酒はしない。
この飲酒について、たまに考えることがあるんだけど、甘酒は飲んでいんだべかな、と思う。
まぁ、気になるなら、飲むなっていう話でもある。
甘酒、ちょっと検索してみるか。
wikiより
『甘酒(あまざけ、カンシュ、醴)は日本の伝統的な甘味飲料の一種で、見た目はどぶろくに類似しており混濁している。甘粥(あまがゆ)とも呼ばれる。主に米こうじと米、あるいは酒粕を原料とする。酒という名がつくものの、アルコール含有はわずかで、市販されている商品はソフトドリンク(アルコール度数1%未満)に分類されるものが多い。法的には飲料に含まれるアルコール分が1%未満であればアルコール飲料ではなくソフトドリンクとして扱われ、未成年者でも飲用が許される。ただし、酒に弱い者(特に幼児)が大量に飲むと酔う可能性がある。』
『法的には飲料に含まれるアルコール分が1%未満であればアルコール飲料ではなくソフトドリンクとして扱われ、未成年者でも飲用が許される。
ただし、酒に弱い者(特に幼児)が大量に飲むと酔う、可能性、がある』と。
これは、また、微妙なところだ。
まぁ、大量に飲まなければ、酔わないから、悪事の直接の原因になることはないだろう。ソフトドリンクとして多少飲むならいいかな。
まぁ、気になるなら、飲むなっていう話でもある。
そういえば、昔、正月に(大乗仏教の)お寺で甘酒を配っていたので、いただいた。かなり熱くて、冷ましてから飲んだが、美味しかった。
大乗仏教はお寺の坊主によって、坊主でありつつ甘酒どころか飲酒の戒め、飲酒の慎みすらもできてないところも見られる。
以前記した破戒の尼さんも然り。身近で言えば、函館にもそういう寺の坊主達がいるのを見て知っているが、
そういうところから見ても、大乗仏教は仏陀の教えから遠いというのは、誰でも理解できる事柄だろう。
日本の大乗仏教が残念な結果になっているという現状だ。
しかし、禅宗や、他の宗派でもきちんと五戒を守っているお坊さんもいらっしゃるだろう。
そのような方は、原始仏典の本当の仏陀の僧伽から遠くない、と。
しかし、大乗仏教で妻帯してもよいというところは、原始仏典の本当の仏陀の僧伽からとても遠いけれども、原始仏典の仏陀の在家の弟子として遠くない。
また、そのように、その妻帯をするという事柄から言うと、妻帯を許す大乗仏教の宗派から、阿羅伽(阿羅漢)となられる聖者が、現われることもないでしょう
仏教の宗派として、阿羅伽(阿羅漢)となられる聖者が現われるとしたら、そこでは仏陀と同じく、妻帯という事柄の内にある愛欲というものを知って、弟子たちに愛欲からの厭離についての教えを説いているでしょうから。
そのように、本当の仏陀の教えを知っている本当の仏陀の出家修行者は、仏陀が妻帯を許すという事柄は、道理としてもありえない、ということを知っていることでしょう。
これが、在家の弟子であれば、妻帯は禁じられているというわけもなく、善い夫と善い妻の心構えも説かれている、と。一般的な事柄に関しての教えについて参照。
これらの事柄からも、本当の、仏陀・法・僧伽と、日本の大乗仏教・教え・僧侶との、距離感は理解されただろうか。)
聖書より
『彼らが食事をしていたとき、イエズスはパンを取り、(神を)賛美して(それを)裂き、弟子たちに渡して言われた
「受け取って食べよ。これは私のからだである」。
また、杯を取り(神に)感謝して(それを)彼らに渡して言われた
「みなそれ(杯)から飲みなさい。というのは、これは多くの人のために(その)罪の赦しのために流される私の(血で建てられる新しい)契約の血である。
本当に私はあなたたちに言う、神の国で新しいのを飲むその日まで、私はもう決してぶどうの木からできたものを飲まない』
『私は真のぶどうの木である、そしてわたしの父はその栽培人である。私についている蔓で実を結ばないものはどれでも、彼はそれを切り取られる、そして実を結ぶものはどれでも、もっと多くの実を結ぶようにそれを剪定される。あなたたちは、私があなたたちに語った言葉によってすでにきよい。私のうちにつながっていなさい、そうすれば私はあなたたちのうちにつながっている。蔓がぶどうの木につながっていないならば、自分からは実を結ぶことができないように、そのようにあなたたちも私のうちにつながっていなければ(実を結ぶことはでき)ない。
私はぶどうの木であり、あなたたちはその蔓である。もし人が私のうちにつながり、私もその人のうちにつながっていれば、その人は多くの実を結ぶ。なぜならば、あなたたちは私から離れては何もすることができないからである。もし人が私のうちにつながっていないならば、蔓のように投げ出されて枯れる。そして人がそれを集めて火に投げ込む、そしてそれは焼けてしまう。』
12月28日
本日は、
函館は、ここ数日で雪が積もった。
朝、寒くて布団から出ずらい。
そういう時は、耳を暖めて、揉みほぐす。
そのように耳の感覚を暖め刺激することによって、起きやすい。
どれ、検索。
寝起きのための耳を暖めマッサージは記されていないようす。
人によるかな。
12月29日
本日は、
また、悪魔の業をなす者達が、テロ放送をしている。
邪念に満ちている。
そういう者達が不法(悪法・悪しき教え)を背に聖者の弟子を殺そうと、種々の悪行を重ねている。
邪念に満ちている者達に、聖者・聖人の真理は見えない。
邪念に満ちているので不法(悪法・悪しき教え)は見えるが、その不法を盲信していることによって、悪業をも為すに到っている。
また、善法を伝えるこちらの人を、悪魔であると見なし、不法を行う自分達は、悪魔ではないと思い込む。
普通に考えても、自分達の導きがどのような存在であるか理解できるであろう。
悪魔の業をする者達の導きは、善なる存在ではない。
話は変わって、
寝起きに耳を暖めてマッサージして起きやすいということは、
不眠症の人が耳を程よく冷やすことによって、睡眠がしやすくなるんではないか。
と先程、思ったが、私は不眠症ではないので、これは、どうだか定かではない。
不眠症の人ちょっと、耳をひんやりさせてみたらどう。
トヨタ企業グループののCMでテロ活動まだやってるよ。
なんか、いつものテロ企業の集まりがまたテロCMをやっているので記していくとしよう。
聖者の弟子の殺人に参加している企業だな。
トヨタ自動車 TOYOTA 12/、 1/2 STV 11:44頃、 1/2 UHB 16:36頃
清水建設
アパマンションホールディングス 12/31 TVH 20:30頃、 1/2 HTB 00:38頃
大正製薬 元旦 UHB 13:10頃
スターウォーズのCMで。元旦
KDDI au 元旦 UHB 13:20頃、 1/2 HBC 16:12頃
シチズン CITIZENN 元旦 STV 15:25頃、 1/2 STV 00:09頃
日本ハム Nipponnham 元旦 HTB 16:18頃、 1/2 UHB 16:37頃
アルペン AlpenGrop 元旦 HTB 16:25頃、 1/2 UHB 11:38頃
びっくりドンキー 元旦 TVH 16:47頃
東京 ディズニー リゾート Tokyo Disney resort 元旦 HBC 22:40頃
シャープ SHARP 元旦 HBC 22:40頃、 1/2 STV 16:16頃
日産 NISSAN 元旦 HTB 22:48頃
三菱電機 Mitsubishi Electric 元旦 HBC 23:45頃
KLab株式会社 1/2 HTB 00:35頃
ハウス食品 House 1/2 UHB 11:50頃
バラク・フセイン・オバマの映像 1/2 UHB 11:54頃
駅伝 1/2 STV 12:02頃
パナソニック Panasonic 1/2 HTB 18:27頃、1/2 HTB 21:47頃
ホンダ HONDA 1/2 HTB 21:21頃
テロ側の、まぁ、集まりの歌とか聞いてても、やっぱり昔から汚れている。
善悪の分別ができていない妖術者が集まってどこを目指してたんだろうかな。
あんまり興味はないけど。
無知な企業を悪く利用して、悪行を重ねているという、その悪業。
そういうのに、絡まれるのも宿命だったのか、と。
テロ側の汚れた歌とか(一昔前の歌ね(動画ではなくCD))聞いてると、そういうのに狙われてる俺って本当に天人だな、と思うわ~。 (←歌の内容から見ても、テロ側の集まりが明らかに、汚れているので、その心が汚れていて、清浄ではない、という歌等を聞いて、そのような悪行者達に意味もわからずに狙われているので、その比較として、自らと、自らの側が天人だと思ったということであって、一応、驕っているつもりは、とくにない。テロ側の存在の愚行・悪行を見ていると、いつものように普通に思ってしまう。が、再び言っておくけれども、驕っているつもりは、とくにない。ちなみに、これは、聖者方から見れば驕りである、と、そういうこと。)
知らないうちに狙われてるからね。(普通は)びっくりするよね。
その悪業を重ねている愚かな妖術者達がどこからどこまで清浄な教えを見知ってやっているんだろうか、と。
その昔の汚れた歌から、現在の悪行を重ねているところを見ても、真っ暗闇だろうというのは、想像に難くない。
真理もほとんど見えていないというのに、自分達の妖術、魔術の方が、聖者方より力が上だとかで自惚れるのは、無知で愚かな驕りでしかない。
仏陀の弟子で破門されたデーヴァダッタも神通を得たが、その神通を悪用して大地獄へと堕ちている。
テロ側の妖術者も妖術・魔術を利用して、悪しき者達と共に、仏陀の弟子を苦しめ悩ましている。
自分達が悪業を犯しているというのは、理解するべきである。
まぁ、理解ができなければ、悪業をかさね更なら地獄へと堕ちる、と。
神は悪しき者達を容赦なく、善業から突き放しているのかもしれない。
私が思う以上に。
恐ろしいもんだよ。
何度も言っているけれども、私がポックリ逝っても、テロ側の愚行者も残り数年、数十年の人生しかないんだよ。
理解できるだろうか。
健康寿命(元気に社会生活を送る寿命)で言えば、もっと短いわけだ。
健康寿命を過ぎれば、もうヨボヨボのおじいさんおばあさんになって現役も引退。
そして、悪業を重ねた者は、後悔と死への恐怖がつのる、と。
若いときに、悪業を重ね、調子に乗って、死後はほぼ地獄へ行くだろうと思われるような行いをしてしまい、後悔と死への恐怖がつのり、
若いときに、善業を重ね、調子に乗らず、死後はほぼ天へ行くだろうと思われるような行いをして、後悔と死への恐怖はほどんとない、という人とでは、
どちらが、心安らぐ死を迎えるでしょうか。
真理として、両人のその行いの違いは、死後にとても大きな差が生じる。
とても大きな差っていうのは、ものすごい大きな差だよね。(例えば、盲目の亀の譬え)
あなたは、そう思わないだろうか。
H28年1月1日(2016年)
あけましておめでとうございます。
このHPで、正しいゴータマ仏陀の教えを知り、そして、善なる心を生じ、悪を厭い離れる心を生じた諸々の人が、正しく、ゴータマ仏陀と仏陀の教え・真理へと導かれますように。合掌
私は、日本が善く見られているのは、仏陀のおかげであると思っている。
仏陀と仏陀の理法・真理と仏陀の僧伽の方々。
そして、イエズス。
クリシュナムルティさん。
他、多くの聖者・聖人方のおかげである。
本日も、年末から元旦にかけての放送でもすでに、テロ側の悪しき者達は、仏陀の弟子を殺そうと、衆生を洗脳しようと工作もしているが、
そのような大局を見ることもできないでいる。
社会での大局というコンパクトな枠から、自らの輪廻という本当の大局をも見ることがない。
それは、何故であるか。
悪法を盲信して、悪心を生じ、そのように悪業を積み続けているが故である。
その悪業の報いは悪い。
人は、悪法を悪法であると知り、悪法を厭いなれ、善法を学び、善心を生じ、善業を積み重ね続けるべし。
その善業の報いは善い。
現在の日本は、大乗の仏教の教義を信仰していて、このHPで説いている本当のゴータマ仏陀の教えである、小乗・清浄仏教を教えているところは─少ない。
その中で、小乗経典を説いている人でも、禅定の意味するところを理解できていないので、迷っている人もいる。
キリスト教の信徒も少なく、聖書を持っているという人も少ない。よって、イエズスの言葉を知っている人も少ない。
日本神道の教義も、神社の系統によってもいろいろ真理とされる教義が説かれているが、その多くを見ても迷うだろう。自らの先祖の家系図を記しているものを教えとしているというところもあり、その中から仏陀の説く真理・理法に相応する教えは見られ難い。
仏教の菩薩との混淆について見ても、真理・理法に相応する教え自体でもなく、真理・理法に迷っているというのも、理解できる。
テロ側の存在で本当のゴータマ仏陀の教えである清浄仏教を持っているように見せかけて、自らのイメージを良くするためだけに、二枚舌を用いて、そのことを利用している者も見られるが、
悪業に加担しているその賤しい者は、本当のゴータマ仏陀の教えである清浄仏教の八聖道からは遠く離れている。
そのような中で、日本の政府(外務大臣岸田文雄が悪語を言っているのを聞いた。前の太郎は、麻生太郎のこと)なりも小乗・清浄仏教を弘通する仏陀の弟子を殺そうとまでしているが、これからどこへ向かおうとしているのだろうか。
悪しき者には、仏陀の説く教え・真理は理解し難い。また、ほとんど見えない。
そして、イエズスの教え・真理も理解し難い。見ても、見えない。聞いても、聞こえないのである。
本日も目が覚め、朝元旦から、羽鳥慎一の番組でやってた。羽鳥慎一自身のことではなく。
悪しき者、そして、偽善者よ、お前の悪業はすでに、善なる存在の知るところである。
その報いは悪い。
多くが悪しき者に導かれている結果を見なさい。
身近なことで言えば、元旦のTV番組も罵詈雑言で大荒れになっている。
多くの物知らぬ人々が、悪しき者に導かれている途中段階だな。
悪趣へと堕ちる人々は、悪行、悪語、悪心を生じて悪趣へと生じる。
こちらは、独りで仏法・真理を守り、真実を語っているのである。
TOYOTAが仏陀の弟子の殺人に参加しているというのも、実際CMでやっていたから、記しているのである。
あなたがたは、自らで悪行を重ね、自らで悪趣への穴へと堕ちている。
いやぁ、年末から元旦にかけて、ゆく年くる年も、見てたけど、ひどい罵詈雑言を言っていたからね。
NHKもだいぶ、汚れてしまったようだ。
(司会者がマイクを手に何度も言っていた。NHK自体がテロを助長している。その紅白歌合戦という番組はNHKの冠番組だろうから。)
テロ側のTV番組が悪口で満ちている。
で、また、あなた方はどこに導かれて、また、誰に導かれてそのような悪行を犯すようになったのか。
あれ、紅白の司会者だったのかな。
どれ、検索。
やっぱり司会者で、間違いない。
それでは、仏陀と仏陀の理法を善く思うという企業も記していこう。(私自身の事を善く言ってくれていたところもあったが、私自身の事ではない)
ローソン LOWSON 1/2 UHB 00:27頃
ハウス食品 house 1/2 UHB 10:50頃
アンファー株式会社 1/2 UHB 11:30頃
二枚舌とか、ガンだから殺すなとかいっている企業は、正道にない。
スターウォーズのCMで殺せって編集してる。
一応、記しておくけれども、仏陀の教えとして、また、聖者の教え・真理として、テロ側の悪業者は本当に正道にないからね。
うかれて悪行をしているみたいだけれども。
地獄の話は、仏教だけでなく、聖書外典にも克明に記されている。イスラム教の言葉で言えばゲヘナ(地獄)。
その話をすれば、その話の中でも、地獄に堕ちた者が、苦しみの中で、「私達は地獄というものが本当にあるとは思いませんでした」とか
「このようなことであるならば、生きているときに悪行をしませんでした」、「どうぞお許しください。私達を憐れんでください」というように、天使に請う場面も記されているが、
地獄に行ってから、そのように請うてももう無駄なこと。
天使に一蹴され、相手にされず。
テロ側の存在は、真理を聞き、その下で、聖者の弟子を殺そうとまでしているわけだ。
テロ側の存在として悪行をしているあなたは、現在、自分がどのような状況にいるかが理解できるだろうか。
地獄はあるかないか、ではなくて、真理として地獄というところは存在する。
そして、善なる存在が出生する、天上の世界もある、と。
元旦、ちょっと出かけて、
では、ちょっと考えてみるか。
カトリックのローマ教皇は神は新しいことを恐れないという、果たして神は新しいことを恐れないのだろうか。
同性婚、同性の恋愛はあるのか、ないのか。
神は男性と女性を創られた。
男性と女性で一つ。
男性と男性で一つ。女性と女性で一つとなるように創られたのだろうか。
もし、神は新しいことを恐れない。なので、新しく神の認めてはいない事柄を行おう。
というので、人々が悪処へと堕ちるようなものを教えとしてひろめてしまったのであれば、
その悪い業の、その責任はその教えをひろめた人にも生じてしまう、と。
そのことによって、その人自身が苦を受けることになるのである。
神は男性と男性で一つ。女性と女性で一つ、となるように、人を創られてはいない、と。
そういうように、答えは、
すぐ出た。
普通の問題の答えはすぐ出ちゃうけれども、
今日も身体の調子が悪いからな~。胃のところが痛いときは激痛だから、その事柄をテロ側の妖術者達とその悪しき者達とは洗脳した者達とともに楽しんでいる。 (←勘違いしないように追記、これはローマ教皇はこの対象として入っていない。そして、そのように言っているのではない。)
テロ側の存在は、聖者方の側の存在であれば、あえて滅するような悪しき快楽を享受している。
H28年1月2日
テロ側の悪行が酷いのが理解できるだろう。
そして、その愚かな悪しき行いも、今に始まった悪行ではない。
H28年1月3日
テロ側の存在に関して
自分達が悪行をしていることを見て、自分達が善なる存在に導かれているのではない、ということ知りなさい。
と、そういうように、出た。
普通に見てても、テロ側の能力者・妖術者・魔術者も、完璧に正道から外れている、善なる存在ではない。
人々を悪行・邪心へと導き、そして聖者の弟子を殺そうとして、邪念をひろげたその悪業は重いだろう。
普通に考えてもね。
人々を盲目にさせるその業。
善なる存在は、そのような悪しき業を行わない。
以前に、記しているけれども、現在のテロ側の存在の行動・意識・集団意識をみれば、私の、以前何度も言っていることが理解できるだろう。
集団意識として、幼稚になった意識と盲目への陥り。
真実すらも、見えてはいないのに、愚かな行いをしたもの・愚かな行いをしているものが英雄的気分になるという集団意識、ようするに、個人であれば、行わない良識の欠如した行いを、集団意識に加わってしまうやいなや、その善なる意識、また、良識ある意識もまた、見失って見えなくなる。
社会的集団として、テロ側の存在は、良識を失っているのというのが、誰の目にも明らかだろう。
以前に記しているのは、そのような事柄である。
以前にも、テロ側の存在は、すでに本当の悪魔達に導かれているから、心して取り組みなさい、と忠告しているのに、あなた方、人の忠告ホントに聞かないよね。
悪魔が集団の意識を操るのは仏典にも記されていることであって、まぁ、悪しき者の行いから考えても、常套手段だろう。
テロ側の能力者・妖術者・魔術者も、あれだけ完璧に正道から外れているようでは、話になるレベルではない。
悪魔に対抗する力なんて、どう見てもないだろ。
逆に、悪魔に心をとられて、悪魔の業を現に行っているという、そういう状況の話。
しかしな~、こういう場合は、どうだべなー。
う~ん
それでは、善行者と悪行者にも関する
真理・理法を正しく実践・修学する人と邪まに実践・修学する人との違いについての教え
教えを正しく実践する人と、邪まに教えを実践する人との大きな違いについて
本日、ちょっと出かけて、
ではまた、ちょっと考えてみるか。
今日は、昔のそのCDというのから、LoveRingというその、私が昔から狙われている(見られている)って言ううちの一枚のCDを聞いていたが、
10月18日に記している彼女のことなんだけども、ハッキリ言って、大好きだった女性Nさんであるが、
数年間でこのCDを何回も聞いて、謎に思っていたが、今日も聞いてて、
どうやら、彼女は言うとおりに動いていたんだろう、と思う。
このCDは彼女と一緒に聞いていたCD。(このCDを聞こうと車と家中を探してもなくて、その後、昔を思い出して、CDの名前を忘れたのでネットで探して改めて購入。そして、改めて聞いたら、やってたので、かなりいろんな意味でショックだった・・・。)
まぁ、主要犯でなく、テロ側の指示通りに動いていたってことだと思われる。
しかし、他のCDの歌とか聞けば、また、微妙だからね。
と、いつものように思った。
ちなみに、何れかの者によって指示され、動かされていたとしても、こっちとしては、相変わらず、全然意味はわからない。
(どうなっているんだか全然わからないけれども、私個人として、このNさんを信用したい、と思ってはいる。
が、しかし、結局は、意味がわからないので、謎と疑念で堂々巡りになる。ふと昔のことを思い出すと、いろんな意味で、悲しい。
Nさんとは高畑や九尾の狐の件での騒動の後、たしか何度か会って後、疎遠になった。悪しき者達が騒ぎ始めてから、九尾の話等を彼女に会ったときにそのことを彼女に言わずに疎遠になったので、言っておけば良かったと後から後悔して、その後、共通の知人がいたこともあり、手紙で事の内容は一応伝えた。
が、しかし、九尾の狐よりも更に前から狙われているようなので、一体どういうことだ、ということ。
彼女と疎遠になった後、テロの悪しき者達が騒ぎ始めた。というか、気づいたのが、たしか、その頃からだ。気づく前から、TVとかラジオのメディア関係者に、もう私はストーカーされていたんだろうか。そこまでは、わからない。
ちなみに、騒動の後、会いに行ったら、話をするのにも、ものすごい拒否をされたので、拒否をされているのに強引に「話をするぞ」、なんてことをしていたならば、ストーカーだと思われるから、私はストーカーだと思われたくもないので、もう話をしに会いにいくつもりもない。だから、Nさんがどうなっているんだか全然わからない。
Nさんが拒否せずに話をするならば、私は普通に話をしてもいい、というか、こちらは聞きたいことは山ほどある、と。
Nさんについてはそういうように私がすごい拒否されている状況、なので、Nさんと私はグルになって悪巧みをしているとか、もしそういう話があったとしても、そういうこともありえません。)
あと、テロ側の存在が私のことをガンだガンだと騒いでいるが、たしかに毎日のように激痛がある。
そして、朝起きたら、口が硫黄のにおいでとても酷いし。
病状はかなり深刻。
テロ側の存在はもっと苦しめるって言っているのも聞くし。
テロ側の存在の集まりはそういう心を持っている者が集まっている。
この意味のわからない絡みの人生は一体何なんだべっていう感じでもあるが、
何なんだべな、と。
そして、仏陀の教えは、私は仏陀の教えによって、以前から何度も何度も忠告をしていたのであるが、テロ側の存在は、いいだけ悪業を重ねて、すでに仏陀の弟子も死にそうな勢いである。
その仏陀の弟子とは私のことであるが。
仏陀の弟子に対するその悪業はとても重いだろう。というのは、自分達でも理解はできることだろう。
そして、すでに、仏陀の弟子は悪行を受けているのであるから、テロ側の存在はその悪業を消滅させることも、基本できないだろう。
ここで、私が亡くなったとしたら、テロ側の存在で罵詈雑言を為して仏陀の弟子を苦しめ悩ました者達は、その悪業に応じて、その悪業によって、悪趣へと堕ちることだろう。
真理を知り、そのような悪業をしたならば、地獄や悪処へと堕ちるというのも知りつつ、その行いを為すというのは、言い逃れできるような立場でもない、というのも理解できるだろう。
またさらに、そのように悪業をした人は地獄や悪処へと堕ちる、堕ちて後、悪い輪廻の流れにも入ることだろう、ということをも知って、その人がそれでも行ったその悪業は、
後から後悔して、「どうぞお許しください。私達を憐れんでください」と言って、仏陀でなく、神に救いを求めたとしても、神でももう救う立場にない。
その逆に、教えで言えば、神はその愚かな人を裁くだろう。
テロ側の存在の悪行をした人は、現状ですでに、そのような悪業を受ける原因となる悪行をすでに行っている。
そして、では、天と人との救いの導きである真理・理法を見れば、どうであるのか。
上記の教えにあるように、たとえ教えを知っても、教えを正しく実践する人と、邪まに実践する人とでは、教えにあるとおり赴く境界は全くことなるのである。
というように、テロ側の本人達は浮かれて気づけていない様子で悪業を重ねたが、すでにそのような酷い状況に陥っているのが、テロ側の存在。
要するに、本物の悪魔にも導かれ、そのように浮かれて悪業を犯したので、もう神でも救えないということ。
私の修学した教えを、いろいろと考えて、そこからのその究極的に、生命をすでに落としている(ような)状況から救われるため、には、
というように考えてあげても、ハッキリ言って、仏陀の教えに反して仏陀の弟子を亡き者にしようと悪業をしているので、すでに完璧にないが、
自ら真理を知り、神に救いを求めたとて、神から裁かれるという立場に、現実にすでに立っているので、もう(その悪業においての)救いの道はない、と言っても過言でもないだろう、とも言える。
が、しかし、仏陀の弟子として、仏陀の慈悲を受け、わたくしも考えてあげると、
救われる道、というか、悪業が軽くなるという道はある。
それは、その仏陀の弟子を助けること。
その仏陀の弟子とは私のことであるが。
これは、私が救ってもらいたいから言っているのではないか、とも思うかもしれないが、
ハッキリ言って、私も死ぬよりも、病気を治して修学をするのが善いが、
そのような、わたくしの思いと別で、実際に仏陀の教えとして律にある。
テロ側の存在は、悪業をすでに犯しているが、悔いの心を生じて、「殺してはならない」と言って、殺しを止めさせ、殺しを止めることを承諾させて、仏陀の弟子を救えば、悪業は軽くなるだろう。
誰かが「その人を殺せ」、また「殺されなさい」と叫んでも、悪業となり、
また、「殺せ」と命じてその人が殺されたならば、命じた人と殺人を犯した人のその悪業はより重いものとなる。(日本から命じる、海外から命じるというような距離は関係がない。)
また、策して、毒、道具等の物でもって殺そうとして、そのような行動をしたならば、そのような行動に移すというところからすでに悪業は生じている。
そしてまた、その人が殺され亡くなったならば、その悪業はより重いものとなる。
戒律として、比丘がそのように人を殺してしまうという悪業を犯したならば、波羅夷として、教団追放となる。
前述
『懺悔の認められない罪〔波羅夷罪〕
「波羅夷とは、あたかも頭を断たれた人が、再び身体と結合して生き得ない如く、同様に比丘が不浄法を行ぜば、沙門に非ず、釈子に非ず。この故に波羅夷という。
波羅夷とは、あたかも枝より落ちた枯葉が、再び緑になること能わざるごとく、この如く比丘が一パーダ以上の物を盗めば、沙門に非ず、釈子に非ず。この故に波羅夷という。
波羅夷とは、あたかも割れて二分せる石は再び合すること能わざる如く、この如く比丘にして故意に人間の生命を奪えば、沙門に非ず、釈子に非ず。この故に波羅夷という。
波羅夷とは、あたかもターラ樹が頭を切られたときは、再び親頭が成長せざる如く、この如く比丘にして悪心にして、空無の上人法を得たりと説けば、沙門に非ず、釈子に非ず。
この故に波羅夷という。」
「波羅夷とは、法智において退没・堕落して、道果の分なし。是れを波羅夷という。
是の如く未知智・等智・他心智・苦・習・尽・道智・無生智(等の)彼の諸智において退没・堕落して道果の分なし。是を波羅夷という。
波羅夷とは、涅槃において退没・堕落して、証果の分なし。是を波羅夷という。
波羅夷とは、梵行において退没・堕落して道果の分なし。是を波羅夷という。
波羅夷とは、犯すべき所の罪、発露悔過すべからず(懺悔の路なし、認められない)。故に波羅夷という。」』
このように、『「全て有能なる者は、不死の教えによって悟るが、全て無能なる者は、不死の教えによって破滅し、堕落します。」』
仏陀の教えである、盲目の亀の譬えをも見て知るならば、これは、あなたの、六道輪廻に生じる存在としての大きな分岐点・審判となるでしょう。
あなたは、仏陀と、神の教えを持って、人を救いますか。
H28年1月4日
本日は、
昨日の話で、昨日の話は重要・重大なる内容なのでここでは、精確に記さないと、私の悪業・悪作ともなるだろうから、
昨日の文章の箇所で、『生命をすでに落としている(ような)状況』に修正。
ここで、私が言う生命とは、生命をもつ者は、有能なる者として。生命を落としている者は、無能なる者として解かれ、
また、聖者・聖人の、真理の教えでいう生命としても解く。
仏陀の弟子を殺すという悪業をすでに行っていることにおいて、『生命をすでに落としている状況』、また、『生命をすでに落としている(ような)状況』と言い、
また、その悪業を行ったが、悔いて、殺さず、悪業を遂げずに、悪行を捨てられる状況において『生命をすでに落としている(ような)状況』と言い、
悪業を遂げた状況において『生命をすでに落としている状況』と言う。
有能なる者として、生命〔不死・仏陀の不死の教え〕をもつ人々・仏陀の教えを正しく実践する人々は、真理を悟ります。
H28年1月5日
本日は、
しかし、独りで仏陀の教えを護るのもちょっと、たいへんだな、と。
現在、我、思ふ。
喩えば、
見てても、多くの人々が、悪しき誘惑によって悪流へと流されて行っている。
仏陀の教えによって、自らと、法とをよりどころとしている人々は流されずに聖者・聖人のところにいる。
悪流に流されてから、かろうじて上ってきた人は、悪流で汚れて来てるから、上ってきても、教えが見えていない。
さきに、悪流に流されて着いた心の汚れを浄らかにしなければ、教えを見ても見えないのだろう。
悪流に流されて、生命を落としそうになっている者もいるので、その餓鬼・畜生・地獄の暗闇の穴の流れに堕ちそうな人を、
仏陀の弟子として、何度も普通に助けに行って、手を差し伸べているんだが、人によっては、私を見て、悪流に落としに来たと思う人もいるようす。
まぁ、そういう人は少ないが、自ら好んで餓鬼・畜生・地獄の暗闇の穴の流れに、喜んで堕ちていく無知な人も多くいる。
そのように、悪流に流されて、すでに生命を落としている者、餓鬼・畜生・地獄の暗闇の穴の流れに堕ちこんだその人は、
もう私たちのところである、仏陀の集まりのところ・聖者・聖人のところ・人のところに上ってくることもほとんどないだろう。
永遠の期間として見れば、上ってくることもあるだろうが、そのような者は、再び餓鬼・畜生・地獄の穴の流れに堕ちていくことが多いらしい。
そのように、餓鬼・畜生・地獄の穴の流れに堕ちた人々は、自らの意思で穴からでることはもうできない。
その穴を見ている存在もいて、その存在が出ることを許さない。
しかし、その穴を見ている存在は、悪流に流されていない私たちの言う言葉であれば、聞いてくれることもあるという。
仏陀の弟子の話では、親縁の人が餓鬼の境界で苦しんでいるのを、布施の功徳によって救うという話もある。
神が話を聞いてくれる能力。
神々と対話する能力。
存在を救う力。
仏陀の弟子の方々は、普通に神々と話をしているが、仏陀と阿羅伽の聖者方の場合は、神々に真理を説くような立場なので、
神々の方が話を聞いてもらって(、自分の言を是認されて)喜んでいる。
遠くに、悪流の流れの近くで、悪魔と対話している人もいるが、あれは、悪魔がその人を悪流の流れに落とそうしているところだな。
あの悪魔と対話をしている人は、そういう状況にいるけれども、昔から、世の中の真実というものを探して、魔術の本を見つけ、
魔術を修学して、やっとの思いで、あそこの悪流まで来たらしい。
まぁ、こっちから普通に見て、長いこと悪魔に誘導されてあそこまで行ったんだろうな、と。
う~ん、そうだな、魔術の本を見つけたあたりからすでに、悪魔が誘導に入っているな。あの様子では。
途中で、善い存在に会えば、気づけただろうに、会えなかったんだろうかな。
まぁ、しょうがない声をかけてやるか。
『おーい、そっちは危ないよー、ちなみに悪魔があなたのところで何かしようとしてるのが見えてるよー』
あれ、聞こえたかな。
あ、悪魔が消えた。
あの人、悪魔に気づいたみたいだ。
よく一言で気づけたよな。
一言で気づける人なんてあんまりいないんじゃないかな。
まぁ、以前から疑わしいところも多々あったのだろう。
でも、長いこと悪行をやっている存在を、悪魔だと気づけない人もいるから、
あの人、やっぱりよく気づけたわ。
あ、あの人こっち来るわ」
仏陀の導きによって、悪魔の誘惑に気づき、そこから逃れられるかどうかは、その人自心にかかっている。
仏陀は道を導き示すが、その道を歩くのは、その人自身だからです。
H28年1月6日
本日は、
あなた方、テロ側の存在者達。
あなた方が争っている相手が、何であるか見えていないのですか。
以前にも、忠告をしているでしょう。
また、仏陀は教えとして、このように説かれている。
前述
仏陀の教え
『「比丘たちよ、世間に生まれているこれら三種の人々は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のため、に生まれている。
三種とは何か。
比丘たちよ、ここに真理の体現者、尊敬される資格の者、正しく目覚めた者、智慧と行為がそなわった者、善くさとりに到った者、世間・出世間を知る者、至上の人、人々を制御する御者、諸天神と人々との師、目覚めた者・世間から尊ばれる者が、世に生まれている。
目覚めた仏は、初めに善く、中間に善く、終わりに善い教えを説き、内容もあり、文句(義)も備わった教えを説き、純粋で完全な、浄らかな修行を明らかにする。
これが、比丘たちよ、世間に生まれた第一の人である。彼は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている。
また、比丘たちよ、師の弟子である聖者がいる。
彼は心の汚れを消滅し、すでに完成し、なすべきことを為し終わり、心の重荷をおろし、自己の目的の到達し、迷いの生存の束縛を滅して、正しい完全智によって完全な精神的自由を得ている。
彼は、初めに善く、中間に善く、終わりに善い教えを説き、内容もあり、文句(義)も備わった教えを説き、純粋で完全な、浄らかな修行を明らかにする。
比丘たちよ、これが世間に生まれた第二の人である。
彼は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、多くの人の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている。
さらにまた、比丘たちよ、、その師の弟子である修学者がいる。
彼は道を修め、多くを学び、戒めを守ることを身につけている。
彼もまた、初めに善く、中間に善く、終わりに善い教えを説き、内容もあり、文句(義)も備わった教えを説き、純粋で完全な、浄らかな修行を明らかにする。
比丘たちよ、これが世間に生まれた第三の人である。
彼は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、多くの人の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている。
まことに比丘たちよ、世間に生まれているこれら三種の人々は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている」
師こそが世における第一の偉大な聖者(仏陀)である。
また、師に従う弟子は自ら道を修める者である。
さらにまた、修学者も道を修め、多くを学び、戒めを守ることを身につけている。
これら三人の天神と人との師は、燈光をもたらし、教えを説く者であり、不死の戸を開き、多くの人を束縛から自由にさせる。
最高の指導者によって説かれた道をたどり、善くさとりに到った仏陀の教えに精励する者たちは、まさにこの世で苦しみを消滅する。』
あなた方は、あなた方を救い(多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との義と利のため、幸福・安楽のため)に来た、私たちと争い、悪魔の業を行い、その仏陀の弟子を亡き者にしようとまでした。
前述の仏陀の教え 教えを正しく実践する人と、邪まに教えを実践する人との大きな違いについて
この教えで言えば、あなた方はどのような道を進むでしょうか。
人々を制御する御者、諸天神と人々との師、全ての生ける者たちから不利益を遠ざけ、利益を与える方、仏陀によって、あなた方は救われるでしょうか。
許される過ち、許されない過ち
許されない悪行。
波羅夷。
人として、決して犯してはならない行いというものがある。
『「大王よ、それでは、大工が材木を、ただ見守っているだけならば、彼は材木をまっすぐにして、使用し易いようにすることができるでしょうか」
「尊者よ、そうではありません。尊者よ、除くべきところをとり去って、このようにして、この大工は材木をまっすぐにして、使用し易いようにするのです」
「大王よ、それと同様に、如来が説法を聞く会衆を、ただ見守っているだけならば、さとるべき人々をさとらせることはできません。
そうではなくて、邪まに実践する人々を遠ざけて、これらのさとるべき人々をさとらせるのです。
大王よ、しかも、彼ら邪まに実践する人々は、自己の為した行為によって、悪の生存に堕します。』
このように、邪まに実践する人々は、自己の為した行為によって、悪の生存に堕すのです。
また、神はあなた方の望むままにあなた方に自由を与えているという。
そして、あなた方は真理を知り、自らで悪魔の業を行った。
『彼ら邪まに実践する人々は、自己の為した行為によって、悪の生存に堕します。』
わかりますか。
神はその人に自由を与え、その人自身に自らの赴く先を選択させているという、そして、
悪行の結果は悪処・地獄へ堕ちるということを知りつつ、邪まに実践した人々は、
その自己の為した行為によって、悪の生存に堕します。
神はそのような人を救わないだろう。
また、神もそのような人を救えないのです。
そして、神が救えないのであれば、イエズスもそのような人を救うことはできないのです。
イエズス
『君たちは清い、しかしみんなが清いわけではない』
清い人と、清くない人。
『聖なる父よ、あなたが私にお与えになった彼らをあなたの御名によって守って下さい、それは私たちが一つであるように、彼らが一つになるだめです。
私が彼らと一緒にいた間は、私はあなたが私にお与えになった彼らをあなたの御名によって守り、そして保護しました。
聖書(の言葉)が成就されるために、滅びの子以外に彼らの中の一人も滅びませんでした。』
このように、悪魔の誘惑に陥って、悪業を為した人が滅びた。
悪魔の誘惑に陥って、悪業を為してしまった人は、滅びるのです。
わかりますか。
あなた方は、悪魔という実在する存在について、きちんと理解するべきである。
『魔羅・悪魔
Ma-ra略して魔という。殺す者の意。または、一切の障り、悪魔などと訳す。
心身を悩乱し、善法を妨げ、人の功徳の財を奪って、智慧の命を殺すものに名づける。
即ち、生命を奪い、善法・善事を障げて、仏道の障礙を為すものをいう』
あなた方は、悪魔の誘惑によって、悪業を重ね、すでに弁解の余地がない。
悪魔という存在は、私やあなた方を社会的な生活において苦しめるというのが、真の目的ということなのではないのです。
悪魔が社会的な生活において苦しめるというのが、真の目的であれば、人々に、貪欲を起させ、快楽を貪らせるということもないでしょう。
仏陀の教え・真理として、貪欲によって、人々は悪処へと導かれます。
要するに、悪魔という存在は、人々を誘惑して、悪業へと導き、その人を、あなたという存在を、輪廻としての破滅・地獄に堕とす存在なのです。
これらの事柄から、悪魔という存在について理解されただろうか。
あなた方は仏陀を、仏陀の言葉を信じていない。
しかし、はっきり言って、
輪廻をも見る聖者方。その天も地獄も、また、人々の輪廻をも見ることのできる聖者。
その聖者の教え・仏陀の教えこそが、あなた方が救われる道なのです。
たとえば、真理を知らない世間の霊能力者は、他の社会的な生活のために悪霊を祓い、他を助けることもあるだろう。
また、愚かな霊能力者は、自らの社会的な生活のために、金銭や、名誉を貪り、悪の生存へと赴くだろう。
世間の霊能力者は、他の社会的な生活のために他を助ける。
それはそれで、とても善い。
しかし、仏陀とイエズスと他多くの聖者・聖人、クリシュナムルティさんも、そのような社会的な安らぎのためだけに教えを説いているのではない。
そして、社会的な快楽(貪欲)のために教えを説いているのではない。
その天も地獄も、また、人々の輪廻をも見ることのできる聖者・仏陀と、また、輪廻を見る多くの聖者方。
聖者・聖人方は、そのように、悪魔という存在と、その悪魔の業というものをも、見通して教えを説かれる。
しかし、世間・世俗の、真理を知らず、天も地獄も、また、人々の輪廻をも見ることのできない霊能力者、
その四聖諦を知らない世間の霊能力者は、悪霊は見えるだろう、がしかし、悪魔という存在とその悪魔の業と、聖者が説く善行とを、分別することは難しいだろう。
なぜならば、本当の悪魔は、その四聖諦を知らない世間の霊能力者からは、天使のようにも見られるからである。
『「好ましく、いとおしく、心地よい一切の色形や音声や味や香りや感触や思いは、 それらが、存在していると言われる限り、
快いものだと、神々や世の人々は一様に思い込んでいる。そして、それらが 消滅したとき、かれらは一様にそれを苦しみと思う。
一方、聖者たちは、存在していた心地よい色形などの集まりが消滅することを 安楽であると見なす。こういった見方は世間の人々と正反対である。
他の人々が快いと言うものを聖者たちは苦しみと語る。他の人々が苦しみと 言うものを聖者たちは安楽と知る。この理解しがたい道理に目をすえなさい。
目の利かない者とたちはこの点に迷う。
ちょうど、目を閉ざした人には暗闇しかないうように、心の目が覆われている人々 には真実は闇の中である。
しかし、目を開ければ光がさし込んでくるように、
聖者たちは一切のものが顕になっている。道理をしらないものたちは、 傍らにいるにもかかわらず、それに気がつかない。畜生のように。』
このように、仏陀と仏陀の弟子の方々は、すでに悪魔に勝っている。
しかし、世間・世俗の四聖諦を見ない霊能力者は、真理として、苦というものが見えていないために、悪霊に勝てるかもしれないが、本当の悪魔に勝つことは難しい。
これらの事柄から、仏陀と聖者・聖人と、世間・世俗の四聖諦を見ない霊能力者の、大きな違いは理解されただろうか。
悪行者に関して、
『悪い行いをした人でも、後に善によってつぐなうならば、その人はこの世を照らす。雲を離れた月のように。』
悪行を、善によってつぐなうことについて
H28年1月7日
本日は、
病院に行って、胃カメラをしてきました。
経鼻内視鏡という鼻からの胃カメラ。
鼻からの胃カメラは初だったが、カメラ自体の映像は口からのカメラよりも、細い分劣るようだが、口からの胃カメラよりもとても楽だった。
口からのカメラよりも気軽にできる感じ。
病院で、胃カメラをしてもらい、映像のCDももらってきたが、担当医に、HPのことを伝え、「TVやラジオで有名になっている本人です」ということ伝え、
そういう「犯罪者的なのはちょっと」というように言っていたので、「いや、犯罪者はこっちじゃなくて、あっちが、犯罪者集団です」と説明したところ、すぐに理解されたようで、
とりあえず、HPに病院名と、担当医名と、胃カメラの映像はネットに載せないという条件の話で、胃カメラをしてもらった。
胃の方は、以前の写真の荒れたところあたりが赤く炎症をおこしていて、あとは、噴門部が開いたままで、閉じていない状態になっているところも見られて、逆流性食道炎の原因でもあるだろう、と。
丁寧な説明を受け、検査の映像もこころよく了承してくれて、CDでコピーしてくれた。五ヶ所細胞を摂取して、検査結果待ち。
状態として、現在も痛みがあり、そして、痛みがあるときは、においも酷い。病状は良くない。身体を前傾姿勢にすると、痛みが出て、においがするんだよね。そして、一回痛みが出ると、しばらくずっと続く状態。
食事をすると、痛みが消える。そして、食後痛みが出る。おもに空腹時。ちなみに、十二指腸は映像を見るかぎり、問題ない。
胃カメラは、他の病院ですることがあれば、そのときはまた、HPに載せようか、と思っている。
鼻からの胃カメラは、口からの胃カメラと比べて、とても楽だった。
と、検査をして、このような一日だった。
H28年1月8日
本日は、
今日も変わらず、テロ企業のCM、TVからラジオにいたるまで、テロ側の存在が殺人用語を用いて悪行をして、邪念に憑かれている。
今日も赤十字にも叩かれたな。
そうだな。
こちら側の人々は、そういう邪念を見て、そのような悪行をしている者達から離れなさい。
テロ側の存在は、CDで、昔の歌を聞き、テロ側の能力者が、昔から知ってて悪行をやっているということに、テロ側の能力者にはかない希望を抱いている者も現われている様子。
仏陀の弟子にすでに為した悪業を、悪業ではないと否定したいという潜在的な意識を了承したいので、そのようにテロ側の能力者に儚い希望を抱いている者も現われている様でもあるが、そして、その儚い希望からまた再び、仏陀の弟子を亡き者にするという悪行に加わっているものもいるようだが、
そのような者は、自らで理法を見ることがない、または、自らで理法を見ることができないので、(悪しき者にならって)悪行に加わることに至っている。
こちら側の聖者方の方にいる人に言うけれども、そういう私が、昔から狙われているなんてのも、もうすでにHPに記しているように知っていた話であって、その意味のわからない行いをずっと見てきて、そのそういう者達の悪行、邪心を見て、そのような悪行を見て知った上で、仏陀の理法をも説いているのである。
たとえば、仮にテロ側の能力者は、現世の数年、数十年を見れるとしようか、一方、仏陀や聖者方は、現世をも見るが、そういう段階の話でなく、何世もの輪廻を見て、仏陀は、更にその存在が涅槃に至るまで見られる。
数年先を、予知する能力は、畜生でもあるものはあるだろう。しかし、畜生は悟りにいたる智慧もない。
テロ側の存在は、そのような数年、数十年先、または前を見れる能力者がこちら側には付いている、だから、安心。だから、同じように、仏陀の弟子を亡き者にすべく、悪行に加わろう、と。
しかし、そのようなのは、すでに犯した悪業による真理における潜在意識の恐怖からの逃げでもあって、
しかも、その悪しき業を行っている存在にはかない希望を抱き、その悪しき業を行っているものにつき従い、同様の行動を行っている。
同様の行動、要するに、さらに、悪業を積み重ね、さらに、暗闇の悪処・地獄へと導かれている。
しかし、そのような真理に対する無智によって悪業を重ね、その無智により真理に対する畏怖もなく、また、鈍感となり、悪業を重ね、悪処へと導かれている能力者も、
はっきり言って、仏陀や聖者方と、その神通の偉大さ、神通の清浄さにおいても、まったく比較にはならないのである。
悪魔の業から、すでに悪魔に導かれている悪行者・愚かな者が脱することは難しい。
聖者の教えをも聞かず、テロで邪悪な行いを、公共でさらけ出している企業、その関係者を見ていると理解もできるだろう。
私たち、仏陀の弟子と、聖者・聖人の側にある人は、そのような道を決して歩いてはならない。
ちなみに、テロの人達にも言うけれども、戒律で
『テロ側の存在は、悪業をすでに犯しているが、悔いの心を生じて、「殺してはならない」と言って、殺しを止めさせ、殺しを止めることを承諾させて、仏陀の弟子を救えば、悪業は軽くなるだろう。
誰かが「その人を殺せ」、また「殺されなさい」と叫んでも、悪業となり、
また、「殺せ」と命じてその人が殺されたならば、命じた人と殺人を犯した人のその悪業はより重いものとなる。(日本から命じる、海外から命じるというような距離は関係がない。)
また、策して、毒、道具等の物でもって殺そうとして、そのような行動をしたならば、そのような行動に移すというところからすでに悪業は生じている。
そしてまた、その人が殺され亡くなったならば、その悪業はより重いものとなる。』
は戒律に記されているものであって、私がこう思うという話ではない。
また、テロの存在者は、アングリマーラ尊者のこともあまり知らずに、アングリマーラ尊者の悪行と、自らのその仏陀の弟子を滅ぼさんとするその大きな悪業とを、比較して、自らの悪業は軽い、と思うかもしれないが、
アングリマーラ尊者の場合は、その後、出家して、悪行を償った。
真理について無智であった尊者は、仏陀のもとにおいて出家するという最上の行いを為して、その分の悪業をも受けている。そして、悪業は滅した。
また、アングリマーラ尊者の場合は、妊婦の話によっても理解できるように、通常の人が故意に犯している悪業とはまた別口です。
出家によって、悪の報いはその程度で済んだ、と解される。
テロ側の存在者は、真理を知り、さらに、仏陀の弟子であると知り、さらに他の事柄をも知りつつ悪行をしている。また、悪行をさせている。
そのような事柄からも、尊者と、自らのその大きな悪業とを比較するべきでないだろう。
テロの存在者は、すでに、仏陀の弟子を滅ぼさんとしたその悪業によって、仏陀および、神、聖者、聖人、善なる存在の方へ導くことが難しい。
私たち、仏陀の弟子と、聖者・聖人の側にある人は、悪行者達が仏陀の弟子を滅ぼさんと邪行を行い、邪念を伝播させている、そのような邪念に捕らえられてはならない。
理法によって、邪悪の分別を知り学び、その邪悪を厭離せよ、と。
H28年1月10日
本日は、
─
トヨタは、数年前のトヨタ主催のスノーボードの競技のTV放送でもすでに叩かれはじめていた。
トヨタの悪いことは書いてないはずだが、私の兄がトヨタのことを褒めていたので、トヨタのイメージは良かったのだが、
トヨタがテロ行為をしているから、無くなった。
マークⅡとか昔から車種としてあったが、
マークⅡのツインターボは昔少し乗ってたな。ツアラーVだったかな。
ちょっと、検索
たしかたぶん2.5GTだな。ツアラーVはそのあとに出たのかな。
スノーボードのTV放送のときからすでに、叩いているというのを知られたくはなかったとかか、
トヨタは、何故そのように、仏陀の弟子を亡き者にしようとしているのか。
まぁ、トヨタ車種の MRAK X の話は、どうだか定かでないから、訂正。
あと、今日もうそうだけれども、三井のリハウス(三井不動産)のCMで,先日からテロ活動をやってるけど、
仏陀の弟子を滅ぼさんとするその行いは何なの。
H28年1月11日
本日は、
動画で数学者ラマヌジャンを見て、アインシュタインの名言を見て、アインシュタインは善い言葉が多かったので
その中で、良い言葉だな、または、善い言葉だなと思ったその言葉をご紹介致しましょう。
ネットより
アルベルト・アインシュタインの言葉
『 道徳は最も重要なことです。神にとってではなく、私たちにとって。
どんな時にも私の歩んできた道を導き、折節の厳しい現実にも明るい気持ちで立ち向かえて来れた心がけは何か。第一に人を理解する優しさ、第二に真に美しきもの、第三に真理を求める心、この三つである。
神聖なる好奇心を失うな。
私にとって、宇宙的宗教心は科学的な研究を推進する上での最も強くかつ最も主要な動機でありました。
我々が抱ける最も素晴らしい感情は、神秘的な感情である。ここに全ての芸術と全ての真の科学の根源が横たわっている。この感情に無縁のものは、異邦人であり、驚くことも出来ず、畏怖心を抱きながら生きることも出来ず、死人も同様である。我々に不可解のものが実際に存在し、最も気高き知恵と異彩を放つ美しさとして明白に表れているということを知ることは・・・その全体的な概形のみが貧しい我々の能力で理解できるというこの知識、そしてこの感情が・・・ 真の宗教的な感情の核である。
どんな知的な愚か者でも、物事を大きく、複雑に、かつ暴力的にすることはできる。その反対の方向に動かすためには、少しの天才と、そしてたくさんの勇気がいる。
力は常に道徳に劣る人間を惹きつける。
平和は力によっては維持できない。理解によってのみ平和は達成される。
何も考えずに権威を敬うことは、真実に対する最大の敵である。
同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、それを狂気という。
怒りは、愚か者の胸にしか住み着かないものだ。
人間の邪悪な心を変えるより、プルトニウムの性質を変えるほうが簡単だ。
自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。
いつだって、偉大な先人達は凡人達の熾烈な抵抗に遭ってきた。
自分や他人の命を意味が無いと考える人間は、不幸であるだけでなく、ほぼ生きる資格がない。
愛は義務より良い教師である。
人間の真の価値は、主に自己からの解放(自分からどれほど自由であるか)によって決まる。
人間にとって最も大切な努力は、自分の行動の中に道徳を追求していくことです。私たちが内面的なバランス、そして存在そのものが、そのことにかかっています。行動に現れる道徳だけが、人生に美と品位をもたらします。
道徳の教養なくして人類の救済はない。
たとえ国家が要求しても良心に反することをしてはならない。
神はサイコロを振らない。
神はいつでも公平に機会を与えてくださる。
環境は私とは全く別のものである。
私はいま孤独の中に生きています。若者には苦痛ですが、成熟した人間にとっては、甘美な孤独の中に。
どんな問題も、それが創られたのと同じレベルの意識では、解くことはできない。
年老いて腰が曲がったものには、死は解放としてやってきます。自分自身が年老いて、死を最後には返さなければならない古い借金のようなものだと思うようになったいま、つくづくそう感じます。
神の叡知が知りたい・・・その他のことは取るに足らないことだ。
人類は“宇宙”と呼ばれる全体の一部であり、時間、空間での限られた一部分である。それ以外から隔てられた何かとして、またその意識をある種類の視覚的幻影として、彼は、彼自身や、思考、そして感情を経験する。その幻影は、ある種類の牢獄であり、我々を個人的な欲望に追いやり、数人の近親者への感情の虜とする。我々の使命は、この牢獄から解き放たれ、全ての生けるものや、自然の全てをその 美しさの下に抱きしめる、慈しみ深い熱情の輪を広げなければならない。
観察と理解の喜びは、自然の最も美しい贈り物である。
自分自身のことについて誠実でない人間は、他人から重んじられる資格はない。
異性に心を奪われることは、大きな喜びであり、必要不可欠なことです。しかし、それが人生の中心事になってはいけません。もしそうなったら、人は道を見失ってしまうでしょう。
私は、理詰めで考えて新しいことを発見したことはない。
学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、それこそ教育だ。
方程式は私にとってより重要です。なぜなら政治は当面にかかわることでありますが、方程式は永遠にかかわるものですから。
この世は危険なところだ。悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら、何もしない人がいるためだ。
物事は全て、出来る限り単純にすべきだ。
シンプルで控えめな生き方が、だれにとっても、体にも、心にも、最善であると信じています。
他者のために生きる人生こそ、生きるに値する人生だ
知識人は問題を解決し、天才は問題を未然に防ぐ。
優れた科学者を生み出すのは知性だと人は言う。彼らは間違っている。それは人格である。
戦争のない世界の先駆者たちは、軍役を拒否する若者たちである。
兵役を指名された人の2%が戦争拒否を声明すれば、政府は無力となります。なぜなら、どの国もその2%を越える人を収容する刑務所のスペースがないからです。
野望やただの義務感からは本当に価値のあるものは生まれません。それは、人や対象となるものへの愛と献身から芽生えます。
知恵とは、学校で学べるものではなく一生をかけて身につけるべきものです。
教えるということは、こちらが差し出したものがつらい義務ではなく貴重な贈り物だと感じられるような事柄であるべきです。
専門的な知識を習得することではなく、自分の頭で考えたり判断する一般的な能力を発達させることが、いつでも第一に優先されるべきです。
文明人の運命は、どれだけ力のある道徳を生み出せるかにかかってきています。
愛国主義の名の下に行われる、英雄主義―─命令、意味の無い暴力、そして忌むべき愚行─―それらを、私は激しく憎みます。
私は誰にも何も求めないので幸せでいられます。お金もどうでもいい。勲章も、肩書も、名誉も、私には何の意味もありません。称賛も欲しくありません。私に喜びをもたらすただひとつのものは、仕事、バイオリン、ヨットを別にすれば、ともに働いた人々への感謝だけです。
人々が努力して手に入れようとする陳腐なもの――所有、物質的な成功、贅沢――は、私には少年時代から卑しむべきものに思われてきました。
私は一日100回は、自分に言い聞かせます。わたしの精神的ならびに物質的生活は、他者の労働の上に成り立っているということを。
精神を大切にするというのなら、それとつながっている身体も大切にしなければいけません。』
H28年1月12日
本日は、
耳鼻咽頭科へ行ってきて、その後、呼吸器科に行ってたら、また、テロの犯罪者集団にすごい嫌がらせされたわ。
4時~5時だったかな、5時過ぎだったかな、その時間帯の札幌のテレビ番組(あとでわかったら記す。)を見れば、連携して仏陀の弟子に嫌がらせをしているのがわかるだろう。
テロ側の存在は、一生懸命にする行いが、聖者方とは、あからさまに正反対の方向にに向かって行っているからね。
テロ側の存在の行い見聞きしてれば、ものすごいフルスピードで、聖者方から遠ざかっていっている。
教えを説いても、変化なし。悪行を続けてるわ。
一人の仏陀の弟子に。
しかし、俺もすごいな、と。
仏陀の弟子だから、ここまでできるんだろうな。
聖者方と真理(と對馬) VS テロ側の存在、のあなた。
のような形式だけど、
実際は、
真理 VS テロ側の存在、のあなた。
かな。
真理に歯向かおうというチャレンジ精神というか、その無知・愚かさは、あなた自身を滅ぼすだろう。
テロの者達のせいで日本の印象もガタ落ちだし。
そもそもテロ側の存在のその 真理と聖者方に歯向い、その聖者の弟子をこぞって滅ぼそうとするというその無知、その愚行は、
他の国の、善なる人や、良識ある人、普通の人から見ても、人として最も下劣な人々のなす行いだろう。
『害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪〔い報い〕がもどってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。』
その真理についての恐怖心や、悪魔・悪霊に導かれているということについての恐怖心を、
仏陀の弟子である私にぶつけられても、あなた方自身でフルスピードで悪処へ引っ張られていってるというか、自らで暗闇へ行ってるから、どうもこうもない。
あなた方は、これから、さらに、真理と戦うことだろう。また、自分自身とも戦うことだろう。
自分自身にはすでに、負けているような状態とも言えるだろうが。
悪魔とは、戦うことはないかも知れない。
言い方を変えると、悪魔とは、戦うこともできないかもしれない。
すでに、悪魔の手中にあるので、悪魔というものに気づくこともできない。
テロ側の妖術者・魔術者の行いは悪行である、という容易に気づけるような事柄に、気づけないのであれば、
悪魔の業に気づくことも、ないだろう。
聖者側の私たちは、聖者方に導かれて、神から善い報いを受け、天神・天使からは善くやったというように、讃辞を受けることもありえることだろう。
人生、数十年、短い間であったけれども、善く努力精進した。
努力が報われて、仏陀の教えは、多くの人が理解できるように再び世に説かれた、と。
天神方も大喜びだな。
その喜び、喜ぶのは理解できる。
お、今思いついた。
とりあえず。
話が変わるけれども、テロの妖術者がストーカーで私の思念を読んでいるから、まぁ、先に記す、というか、
記す前にどうにか滅ぼしたいとかいうのもありえるので、先に、記しておくが、
これは、私が、ニュース番組を見てて、別にTVの普通のニュース番組で、多くの視聴者も見ていると思うのだが、
動画ではないだろうけれども、まぁ、別に私としてはどちらでもいいことなのだが、
一つ、あれだな、隣の隣の国のミサイルのテポドンだかノドンだったか、大気圏に出てから、狙いを定めるミサイル開発してたべさ。
そのミサイルに三菱のマークが描かれていた。という記憶がある。
三菱に似たマークかもしれないが、そういう記憶がある。
以上。
テロ側がそういうのを隠そうと私を狙っていたのも一つの要因かもしれないということで、悪しき妖術者が私の思念を読んでいるだろうから、先に記したが、
ニュースでやってたことなので、別にたして重要でもないのかな。まぁ、そこら辺は知らない。
まぁ、そこは、三菱のマークでなかったら、申し訳ない、と先に謝っておこう。
別に、記す気も特になかったが、テロの悪しき妖術者達が私の思念を読んでいるだろうから先に記す。
まぁ、まぁ、テロの悪しき妖術者達が中に入れば、敵対する者達が増えるな。
日本の企業とその関係者のテロの存在と、聖者・聖人方と仏陀の弟子の私との仲介に、悪しき妖術者達が入っているから、余計に険悪な関係になって行くと。
その妖術者は、犯罪者であり、嘘言をしているので、日本の企業とその関係者のテロの存在と、聖者・聖人方と仏陀の弟子の私との関係を悪化させたいという意図だろう。
日本の企業とその関係者も、直接私自身に話しかけて来た方が善いですよ。
悪しき妖術者達が仲介に入っている状態で、仏陀のもとに来ようとすること自体も難しいということです。
仏陀の教えも正しくそちらまで、届かない、と。
テロの悪しき妖術者達が中に入って悪行を重ね、聖者・聖人方と仏陀の弟子の私と、日本の企業とその関係者のテロの存在との間を裂いていることにより、日本の印象もガタ落ち。
そして、真理と聖者方に歯向い、その聖者の弟子をこぞって滅ぼそうとしている者は、
海内の他の国の、信仰のある多くの人から見ても、人として最低な人だと思われるだろう。
こちらは、何度も注意、忠告をしているのだか、テロ側の存在は、悪しき妖術者達にも騙され、私の言葉に耳を傾けない。
悪しき妖術者達が悪行をしているのも、見ればわかるだろうに。
まぁ、直接話合いにくれば善いですよ。
その話の内容も、このHPに載せてもいいので。
話し合いをすれば、HPに載るだろうというつもりで。
いままで、テロ側の存在が、私のところ・仏陀の弟子のところに話合いに来たことは、一度もない。
悪しき妖術者達も影でこそこそやってるけれども、直接こっちに話合いに来ないべさ。
それは、あなた方は、あなた方の悪しき行いが、明るみに出るのを恐れているからだろう。
教えでもそうだけれども、
あなた方は光に来ない。
そして、光(真理)を怖れている。
28年1月13日
本日は、
創価学会、また、CMでやってるよ。
そのような行いを、いわゆる、カルト宗教という。
言い方をやわらかくすればいいって問題ではないだろ。
法華経にそういうことが記されているのか。
札幌学院大学も酷いCMだな。
テロ側の存在のこの札幌学院大学の酷いCMを流しているような者達と、
価値観を共有しなさい、とか、価値観を合わせなさいっていうのは、
こちらとしても、無理。
仏陀の教えとして、そのような悪しき者と親しんでならない。
どう見ても、愚かなCMにしか見えない。
テロ側のその良識とその価値観が、こっちの聖者側から見たら、すごい愚かに見えている。
で、実際教えで言っても、そのような行いを愚かな行いという。
サッカーの国家斉唱の見てたけど。
何。
悪行を捨てて、国で仏教を信仰するのが善いと思うよ。
H28年1月14日
本日は、
とても天気が良い。
さて、今日は。
しかし、テロ側について行った多くの人々が、悪しき者に引っ張られて、堕していってしまった。
う~ん、
何度も忠告をしていたのに。
仏陀の弟子を滅ぼさんとした悪業の報いは、とても悪いだろう。
「大王よ、しかも、彼ら邪まに実践する人々は、自己の為した行為によって、〈悪の生存に〉堕落します。」
「大王よ、それと同様に、如来は一万の神々や人々の世界に、不死の教えの布施をされました。
そして、全て有能なる者は、不死の法施によって悟るが、全て無能なる者は、不死の法施によって破滅し、堕落します。」
聖者の教えにおいて、仏陀の弟子を滅ぼさんとする者は、有能なる者と言われるでしょうか。無能なる者と言われるでしょうか。
仏陀の弟子を滅ぼさんとする者は、無能なる者と言われるのです。
そして、『全て無能なる者は、不死の法施によって破滅し、堕落します。』
真理の教えにおいて、自らの進んでいる道が見えますか。
テロ側の存在は、もう笑っていられるような状況でもないだろう。
聖者方の教えを聞かないで、悪行やっている妖術者の言うことに耳を傾けて、笑っていたからそういう結果だべさ。
普通、テロ側の妖術者の行いを見てたら、悪行をしている悪しき者であって、単なる犯罪者だってわかるから。
いろいろ見てきて思うのだが、フルイにかけるっていうのは、計画としてあったのかもしれないな、と。
いや、地上の人々の計画でなく、天上での。
悪魔もそういう人々を引っ張っていってしまったし。
修験道でも、神霊がそういうように言っていたというのを直接聞いたけれども。以前に述べた話の。
『大王よ、如来は教えを説くとき、愛好と嫌悪と〈の感情によって説くこと〉をせず、愛好と嫌悪から離れて教えを説かれます。
このように〈如来が〉教えを説くとき、そこにおいて正しく〈教えを〉実践する人々は、〈真理を〉悟ります。』
ここで、邪行に加わらず、正しく実践している人々、邪行を捨てる人、他にも邪行を捨てさせる人、有能なる人々にとっては、フルイの話も、たいして気にする必要もなく。
『全て無能なる者は、不死の法施によって破滅し、堕落します。』という言葉も、たいして気にする必要も無く。
まぁ、そのような人は、現在の自分のことではないから、たいして気にする必要はないにしても、自分も悪業を犯さないように気をつけていく、というのは必要である、と。
真理について
『聖書より
パウロ ローマ人への手紙
1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間の、あらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに、明らかにされたのである。
20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造からこのかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって彼らには弁解の余地が無い。
21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなったからである。
22 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり
23 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。
24 ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分の身体を互いにはずかしめて、汚すままに任せられた。
25 彼らは神の真理を変えて、虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである。アァメン。
26 それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然な関係を不自然なものに代え、
27 男もまた同じように女との自然な関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱交の当然の報いを身に受けたのである。
28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と、悪と、貪欲と、悪意にあふれ、ねたみと、殺意と、争いと、詐欺と、悪念とに満ち、また、ざん言〔他人を陥れようとして、事実をまげ、偽って悪しざまに告げ口をすること〕)をする者、
30 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
32 彼らは、こうした事を行う者どもが死に値するという神の定めをよく知りながら、自らその行いを行うばかりではなく、その行いをする者どもを是認さえしている。
2:1 だから、ああ、すべて人を裁く者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めている。裁くあなたも、同じことを行っているからである。
2 私たちは、神の裁きがこのような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
3 ああ、このような事を行う者どもを裁きながら、しかも自ら同じ事を行う人よ。あなたは、神の裁きをのがれうると思うのか。
4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しい裁きの現われる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
6 神は、おのおの、その業にしたがって報いられる。
7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
8 他方では、党派心を抱き、真理に従わないで、不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
9 悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
10 善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、光栄とほまれと平安とが与えれられる。
11 なぜなら、神は、かたより見ることがないからである。
12 そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によって裁かれる。
13 なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なる者ではなく、律法を行う者が、義とされるからである。
14 すなわち、律法を持たない異邦人が自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法をもたなくても、彼らにとっては自分自身〔(善の教えによる)善行〕が律法なのである。
15 彼らは律法〔善法〕の要求がその心に記されていることを現し、そのことを彼らの良心〔善の心〕も共にあかしをして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明しあうのである。
16 そして、これらのことは、私の福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事柄を裁かれるその日に、明らかにされるであろう。』
H28年1月16日
本日は、
また、第一生命に叩かれた。STV 20:10
また、治療の邪魔しようとして、無実の仏陀の弟子を叩いている。
治療する関係者をも叩いて、治療をさせないようにする、というのもテロの者達のパターン。
そのようにして、治療をさせないようにして、殺人をするという、殺人集団。
犯罪者にはかわりない。
というのは、一般常識として、普通に、自らで、気づくべきもの。
騒いでいるけれども、殺人の共犯者。
八正道になし。
そのような行いを見ても、善なる存在にあらず、悪しき存在である。
H28年1月19日
本日は、
昨日、病院に行って、検査結果を聞いてきたが、いつもどおり、グループ1の胃炎だということだった。
ラジオ等で、「間違いなく胃ガン」等ということを言って、騒いでいた。
本日は、ユーチューブで昔の動画を見ていたが、前からだけれども、動画でテロの編集がひどい。
ユーチューブにそういうテロの者達の編集動画が多く見られる。
芸能人の本人に吹き替えさせてるのもあるんだろうか。
昔からテロ編集にあるようなあからさまに愚かな言動・事柄をTV等でやっていたとしたら、
昔、若い頃に、TVを見ていて「こいつらは何をおかしな事を言っているんだ」と、
TVを見て思ったことだろうが、昔は、そういうことを思ったことはない。
昔のTV等は、そういうところでも、普通だった。
現在のTV等を見聞きしていると、「こいつらは何をおかしな事を言っているんだ」というのは、いつも思う。
H28年1月22日
本日は、
また、殺人集団が殺すとか言ってるし。
この殺人集団は何とかならないのか。
治安がすこぶる悪い。
テロ側の存在の悪行のせいで、犯罪者も増えるだろう。
国の治安にも悪影響を及ぼす愚かな者達。
函館のTVとラジオ放送を聞けばテロ側の企業がすぐわかる。
今日は、フォルクスワーゲンもテロCMやってたな。
あとは、よつば牛乳。
こちらは、仏陀の教えによって、治安を根本から改善していっているというのに。
企業のCMで、「殺せ」とか「死ね」とか言っている企業の社員って、その企業の社員同士で「死ね」とか言い争っていても、不思議ではないだろうな。
公共のCMで、やっているくらいだから。
と、企業の理念がその程度だから、当然そうなるだろう。
愧ずかしい行いだろう。
人としても。社会人としても。
普通は、そのような愚行を愧じとする。
もうこちらは、犯人でも何でもないっていうのもわかっているというのに。
買い物に行けば行ったで、ラジオでストーカー。
何故か、私の情報を集めているという、意味のわからなさ。
すごい気持ちが悪い。
23:16現在、このように記すと、ラジオの雰囲気がガラッとかわる、と。
犯罪者の者達は、いつもコロコロ変わるから。
だから、テロ側の存在を、犯罪者で嘘言をする者として、犯罪者の心理で見てかからないと話がまとまらない、と思うだよね。
罵詈雑言・悪語を言わないと、「ガン」にするとか、言わされているとしても、どちらにしても、こちら(一般の人たち)から見たら犯罪者には変わりはない。
あ~、そうだな、地域によって、CMが違うだろうから、テロ側の悪しき工作も違うんだな。
ということで、とりあえず、函館では、CMはいつもテロ側の企業が私を叩いているCMが主に流れている。
他の地域のCMは、どのようなCMが流れているかは全くわからない。
テロ関係者の、高畑や、ニワや、イチカドや、高畑の彼氏だった人物の名前を言って、ちょくちょく騒いでもいるようだが、
彼らが、どのような状況かも全く知らない。
とりあえず、仏陀の弟子のわたくしは、いつも、テロ側の犯罪者集団から、叩かれている。
最初から、犯人でも何でもないっていうのもわかっていただろうに。
思念を読んでいるならば、さらに言うまでもないほどにわかるだろうに。
で、あるからして、テロ側の妖術者・魔術者・能力者は、たいした能力がないか、悪意を持って犯罪行為をしているか、どちらかということになるが、
普通、ここまで言わなくても、理解できるだろう。
まぁ、嘘に嘘を重ねても、どちらにしても、正道にないよ。
『或る人が愚者の力を力としているならば、その(者の)力を〈愚痴による力・無力・力無し〉と呼ぶ。』
サッカーのCMでも、テロ企業ひどいCMしてるよ。函館放送 HTB24:22
あなた方、そのように悪業を積み続けているけれども、私は悪業を積んでいるわけでもない。
H28年1月25日
本日は、
仏陀の教え
布施の功徳について
H28年1月26日
本日は、以前に説いた仏陀の教えで、神々の對話のうちにリンクしていなかったので、再び上げる。
仏陀の教え
真理を観察する妨げ(罪業)
魔術・妖術・幻術に関して
闘争に関して
仏陀と法と僧伽に帰依することについて 更訂
H28年1月28日
本日は、
小型電磁力発電機という発電機の動画と、空気中から水を作る装置、の動画を見て便利そうなので。
フリーエネルギー。本当に使えるようであれば便利。
また、その理法を伝える側の立場の人に対する私から問いかけとして、果たして、その同性愛をしたその人は、死後に、神のもとや天へ行けるのだろうか、地獄や悪処へと堕ちるのだろうか。
例えば、同性愛をしたその人が、死後に地獄や悪処へ堕ちたとする。では、なぜその人を真理へと、善へと、天へと導いてあげなかったのか、真理の道を示さなかったのか、と。
イエズスは現世の快楽(自らが関与する社会の恩恵)のために教えを説いたのだろうか。
また、理法を伝える側の立場の人というのは、人々を現世の快楽に浸らせ地獄の穴へ迷わせるために教えを説くのが正しいのだろうか。人々の心を浄くさせ善処へと導くために教えを説くのが正しいのだろうか。
イエズス曰く
『あなたがたは、神と富に兼ね使えることはできない』。)
そして、
今日もまた、悪しき者達が悪行を繰り返していたが、テロ側の存在の悪言は、聞いてても、もうだいぶ、良識からずれてしまっている、と。
これだけ理法を説いてもなお、悪行を繰り返しているという行いを見て、すでにその存在の進んでいる道も知れるだろう。
善なる人は、その悪趣への道に迷いこまないように注意しなければならない。
で、イエズスの言葉での話と、私の喩え話のところで、内容の矛盾に引っかかってしまうこともありえるだろうところについて。
『喩えば、人間として生きていたとき世界で指折りの大富豪の人が善処に出生したとする。
その善処に生じた賢い者は、生きているとき、世界で指折りの大富豪であったが、』
の喩えのところで、
これは、イエズスの『財産のある者が神の国にはいるのはなんと難しいことであろう』という言葉と矛盾しているではないか、という意見も出ただろうか、と。
そういう話で言えば、大富豪・財産のある者(貪欲な者)が父の身元に行けるという道理はない。
そのような、イエズスの言う清浄な神の国〔仏教で言う”善処”という言葉に含まれる(神の国)〕でなくて、(欲界の)善処であれば、金持ちでも善業によって赴くことはできる、と。
「世の中金だ」とか言い張っているような貪欲な者は、善処に赴くことすらも難しいだろう。
そうではなくて、 富や権力を得るために貪ることなく、多くの人々を苦しめ悩すこともなく、多くの人々に多くのものを施し与え、病人や障害のある人々老人や弱者を助け、
そして、汚れた富や権力に群がる貪欲な人々とともに快楽に浸ることなく、怒り捨て、清浄な人々とともに(仏陀の教えを修学して)楽しく和やかに暮らす、
そのように、天に徳を積む。
そのように、善を行うということ、その行いによって、あなたは善処へと赴く、と。
そして、まとめるために言うけれども、
このイエズスの話あるべさ。
『財産のある者が神の国にはいるのはなんと難しい』という善の話。
で、その次に話した、『富や権力を持っているが善業によって、善処に赴く』という善の話。
どちらも善の話でなのであるが、『富や権力を持っているが善業によって、(欲界の)善処に赴く』という話は、これは悪魔が悪意を持って、聖者や聖人に話せば、悪魔の誘惑になりえるっていうこと。
意味はわかりますか。
イエズスの話は、そのような悪魔の誘惑とを分けて語っている。
そして、私も、仏陀の教えによって、悪魔の誘惑というものを分別し説明して語っている。
あとは、
テロ側の存在は、
あなた方は、現在でも、自分達は神から救われると思っているのだろうか。悪業を重ねつつも。
まぁ、聖書で言っても、神は、すでにその逆、ということも、イエズスの言葉からも、考えられる事柄である。
私もすでに、善なる存在を、殺人犯達から離して、安らぎに導く、という、仏陀の弟子として、普通のような事柄をして、話もしているように。
イエズス
「善人が善行を、悪人が悪行を、
その人に、そのようにさせておけ。」
そして、
善い麦と毒麦の話。
悪しき者に関しての
仏陀の言葉
『お前は塵を撒いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長い間深い坑(地獄)に陥る。
けだし何者の業も滅びることはない。
それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける』
『罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、ゆるがせにしてはならない。
パドゥマ地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどあると、諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。
ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど長く続こうとも、その間は地獄にとどまらねばならない。
それ故に、人は清く、温良で、立派な美徳をめざして、常に言葉と心を慎むべきである。』
聖者の教えを聞いて、恐怖する者は、悔い改めて、急ぎ戻るように努力精進するべきである。
人の寿命は短い。
TOYOTAがテロCMやってる。
12月25日
本日は、
昨日は日記を記した後、休息しようとしたら、TOYOTAが企業グループとしてテロCMを流してたので、しょうがなく記しておいた。
その企業の代表者なりが、そうとう善業に縁遠いところにいるようす。
今日は、先日のアダム文書のところの『モーセの黙示録』を本を見て修正しなおしたので、更新。
昨日の、
『 これは、イエズスの『財産のある者が神の国にはいるのはなんと難しいことであろう』という言葉と矛盾しているではないか、という意見も出ただろうか、と。
そういう話で言えば、大富豪・財産のある者(貪欲な者)が父の身元に行けるという道理はない。』
という話をしたが、ここは、通常そうだけれども特例として、貪欲心が限りなく少なく、しかも大なり小なりの財産を持っている場合、父の身元に行けることもあるかもしれない。
翻訳の言葉で言っても、「財産のある者が神の国にはいるのは難しい」というその「難しい」っていうことであれば、全く不可能ということでもない、とも言える。
そして、その難しいが全く不可能ではないとすると、その可能性はどのくらいあるのか、というのは、聖書に記されている通りの難しさで、
要するに
イエズス曰く
『富んでいる者(金持ち)が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが、もっとやさしい。』
これを聞いた人々が、
「それでは、誰が救われることができるのですか」と尋ねると、
イエズスは言われた
「人にできなくても、神はできる」
このように、富んでいる者(金持ち)が神の国に入る、というのは、ほとんど不可能であるが、神であれば可能、というレベル。
神レベルの難しさ。
だから、通常で言えば、ほぼ不可能である、と。
そのように、神の国に入る、ということは難しいということも理解できるが、
真理を学ぶ者・仏陀の弟子として、仏陀の弟子である阿羅伽の聖者の方々を見て、神の国を言うならば、
阿羅伽の聖者になるということよりも、神の国に入るということの方が実に容易なのである。
そのように、仏陀の弟子である阿羅伽の聖者・尊敬されるべき人という方々は、それほどにすごい方々なのである、と。
神の国に入る難しさと、
仏陀の弟子である阿羅伽の聖者・尊敬されるべき人という方々のすごさは理解されたであろうか。
12月26日
本日は、
昨日の、
『阿羅伽の聖者になるということよりも、神の国に入るということの方が実に容易なのである。』
というように記したが、
阿羅伽というとてもすごい聖者と比較したならば、神の国に入るということの方が実に容易なのである。という論理にもなるが、
世間の教えから見れば、神の国に入るということは、とてもレベルの高い話であって、実に難易度が高く、実に容易ではない、
富んでいる者(金持ち)に関しては、富んでいる者(金持ち)が神の国に入る、というのは、難しい、ほとんど不可能という論理です。
要するに、世間の教えでは、神の国に入ることすらも難しい、と。
仏陀と仏陀の弟子の聖者方もどれほどすごい方々なのかは理解できただろうか。
そして、アダムを迷わせた木に関して、
アダムを迷わせた木はイチジクの木ではなくて、ぶどうの木であって堕天使サマエルが植え、このことについて神が怒り、神は彼とその木とを呪い、それゆえ、その木にふれることをアダムに許さなかった。悪魔は嫉妬して、自分のぶどう(欲望)を通してアダムを欺いた。
しかし、『その木のせいで人類は罰を受けたが、インヌマエルなるイエズスを通してその木において上への召しを受け、楽園へ入ることを許されるようになるであろう』と神は天使サラサエルに言わせている。
という話もある。
『ノアよ、立ってその蔓を植えよ。神がこう言われるのだから。この木の若さは甘さに変えられ、その呪いは祝福となり、そこから生ずるものは神の血となるであろう。その(木の)おかげで人類は罰を受けたのだが、今度はインヌマエルなるイエス・キリストを通してその木において上への召しを受け、楽園へ入ることを許されるようになるであろう
そういうわけなので、バルクよ、知りなさい。アダムがその木を通して断罪され、神の栄光を奪い取られたのと同じように、今の人々もそれから生ずるぶどう酒(欲望)をあくことを知らずに飲み続けて、アダムよりもひどい罪を生み出し、神の栄光から遠く離れて、己が身を永遠の火に委ねているのです。ぶどう酒(欲望)を通しては、善いものは何一つ生じないのですから。これをがぶ飲みする者達は、次のようなことをするのです。兄弟が兄弟を、父が息子を、子供が両親を憐まず、たとえば殺人、姦通、姦淫、偽誓、盗み、およびこれらに類似のものはすべて飲酒を通して生ずるのです。
ぶどう酒(欲望)を通しては、善いものは何一つ打ち建てられません。』 バルク黙示録〔聖書外典〕
『 イエズスは言われた
「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現われ出た。私は彼らが皆酔いしれているのを見出した。
私は彼らの中に一人も渇ける者を見出さなかった。そして、私の魂は人の子らのために苦痛を受けた。
なぜなら、彼らは彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。
彼らは空(から)でこの世に来て、再び空(から)でこの世から出ようとしているからである。
彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう」』
ということで、
イエズスの教えは、飲酒そのもの戒めも、掛かっていると捉えて受けて善いだろう。
(上記のバルクの黙示録〔聖書外典〕もぶどう酒と欲望を掛けて記したけれども、バルクの黙示録は、そのまま飲酒の戒めを伝えている、ということでもあるだろうから、飲酒、酒を貪り悪事を為すにいたる、悪事の原因、欲望の原因となる酒、飲酒をする人は、そのまま、飲み物の酒として、飲酒の戒めとして、そのまま受けた方が善いだろう。)
飲酒をしてはならない。
という教えは、仏陀の教えに、戒律としてあるので、
この教えもまた、真理・理法に適っている。
( 仏陀の教え
「飲酒を行ってはならぬ。
この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。
他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。
これは終に人を狂酔せしめるものであると知って。
けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、
また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍の起こるもとを回避せよ。
飲酒は愚人の愛好するところであるが、しかし、人を狂酔せしめ迷わせるものである。」
ちなみに、私が最初に原始仏典の本物の仏陀の言葉を知ったのは、スッタニパータであって、この教えはその頃から知っていたが、五戒のうちのこの飲酒は、昔からたいして飲まないけれども、一年に何回かたまに集まりのとき等に多少飲むので、酒を飲まない、でなくて、飲酒を慎むということで、自分の内で受けていた。
飲酒の慎みも、仏典のうちで説かれているところがあるので、そちらを(多少無理して)採用。
現在は、飲酒はしない。
この飲酒について、たまに考えることがあるんだけど、甘酒は飲んでいんだべかな、と思う。
まぁ、気になるなら、飲むなっていう話でもある。
甘酒、ちょっと検索してみるか。
wikiより
『甘酒(あまざけ、カンシュ、醴)は日本の伝統的な甘味飲料の一種で、見た目はどぶろくに類似しており混濁している。甘粥(あまがゆ)とも呼ばれる。主に米こうじと米、あるいは酒粕を原料とする。酒という名がつくものの、アルコール含有はわずかで、市販されている商品はソフトドリンク(アルコール度数1%未満)に分類されるものが多い。法的には飲料に含まれるアルコール分が1%未満であればアルコール飲料ではなくソフトドリンクとして扱われ、未成年者でも飲用が許される。ただし、酒に弱い者(特に幼児)が大量に飲むと酔う可能性がある。』
『法的には飲料に含まれるアルコール分が1%未満であればアルコール飲料ではなくソフトドリンクとして扱われ、未成年者でも飲用が許される。
ただし、酒に弱い者(特に幼児)が大量に飲むと酔う、可能性、がある』と。
これは、また、微妙なところだ。
まぁ、大量に飲まなければ、酔わないから、悪事の直接の原因になることはないだろう。ソフトドリンクとして多少飲むならいいかな。
まぁ、気になるなら、飲むなっていう話でもある。
そういえば、昔、正月に(大乗仏教の)お寺で甘酒を配っていたので、いただいた。かなり熱くて、冷ましてから飲んだが、美味しかった。
大乗仏教はお寺の坊主によって、坊主でありつつ甘酒どころか飲酒の戒め、飲酒の慎みすらもできてないところも見られる。
以前記した破戒の尼さんも然り。身近で言えば、函館にもそういう寺の坊主達がいるのを見て知っているが、
そういうところから見ても、大乗仏教は仏陀の教えから遠いというのは、誰でも理解できる事柄だろう。
日本の大乗仏教が残念な結果になっているという現状だ。
しかし、禅宗や、他の宗派でもきちんと五戒を守っているお坊さんもいらっしゃるだろう。
そのような方は、原始仏典の本当の仏陀の僧伽から遠くない、と。
しかし、大乗仏教で妻帯してもよいというところは、原始仏典の本当の仏陀の僧伽からとても遠いけれども、原始仏典の仏陀の在家の弟子として遠くない。
また、そのように、その妻帯をするという事柄から言うと、妻帯を許す大乗仏教の宗派から、阿羅伽(阿羅漢)となられる聖者が、現われることもないでしょう
仏教の宗派として、阿羅伽(阿羅漢)となられる聖者が現われるとしたら、そこでは仏陀と同じく、妻帯という事柄の内にある愛欲というものを知って、弟子たちに愛欲からの厭離についての教えを説いているでしょうから。
そのように、本当の仏陀の教えを知っている本当の仏陀の出家修行者は、仏陀が妻帯を許すという事柄は、道理としてもありえない、ということを知っていることでしょう。
これが、在家の弟子であれば、妻帯は禁じられているというわけもなく、善い夫と善い妻の心構えも説かれている、と。一般的な事柄に関しての教えについて参照。
これらの事柄からも、本当の、仏陀・法・僧伽と、日本の大乗仏教・教え・僧侶との、距離感は理解されただろうか。)
聖書より
『彼らが食事をしていたとき、イエズスはパンを取り、(神を)賛美して(それを)裂き、弟子たちに渡して言われた
「受け取って食べよ。これは私のからだである」。
また、杯を取り(神に)感謝して(それを)彼らに渡して言われた
「みなそれ(杯)から飲みなさい。というのは、これは多くの人のために(その)罪の赦しのために流される私の(血で建てられる新しい)契約の血である。
本当に私はあなたたちに言う、神の国で新しいのを飲むその日まで、私はもう決してぶどうの木からできたものを飲まない』
『私は真のぶどうの木である、そしてわたしの父はその栽培人である。私についている蔓で実を結ばないものはどれでも、彼はそれを切り取られる、そして実を結ぶものはどれでも、もっと多くの実を結ぶようにそれを剪定される。あなたたちは、私があなたたちに語った言葉によってすでにきよい。私のうちにつながっていなさい、そうすれば私はあなたたちのうちにつながっている。蔓がぶどうの木につながっていないならば、自分からは実を結ぶことができないように、そのようにあなたたちも私のうちにつながっていなければ(実を結ぶことはでき)ない。
私はぶどうの木であり、あなたたちはその蔓である。もし人が私のうちにつながり、私もその人のうちにつながっていれば、その人は多くの実を結ぶ。なぜならば、あなたたちは私から離れては何もすることができないからである。もし人が私のうちにつながっていないならば、蔓のように投げ出されて枯れる。そして人がそれを集めて火に投げ込む、そしてそれは焼けてしまう。』
12月28日
本日は、
函館は、ここ数日で雪が積もった。
朝、寒くて布団から出ずらい。
そういう時は、耳を暖めて、揉みほぐす。
そのように耳の感覚を暖め刺激することによって、起きやすい。
どれ、検索。
寝起きのための耳を暖めマッサージは記されていないようす。
人によるかな。
12月29日
本日は、
また、悪魔の業をなす者達が、テロ放送をしている。
邪念に満ちている。
そういう者達が不法(悪法・悪しき教え)を背に聖者の弟子を殺そうと、種々の悪行を重ねている。
邪念に満ちている者達に、聖者・聖人の真理は見えない。
邪念に満ちているので不法(悪法・悪しき教え)は見えるが、その不法を盲信していることによって、悪業をも為すに到っている。
また、善法を伝えるこちらの人を、悪魔であると見なし、不法を行う自分達は、悪魔ではないと思い込む。
普通に考えても、自分達の導きがどのような存在であるか理解できるであろう。
悪魔の業をする者達の導きは、善なる存在ではない。
話は変わって、
寝起きに耳を暖めてマッサージして起きやすいということは、
不眠症の人が耳を程よく冷やすことによって、睡眠がしやすくなるんではないか。
と先程、思ったが、私は不眠症ではないので、これは、どうだか定かではない。
不眠症の人ちょっと、耳をひんやりさせてみたらどう。
トヨタ企業グループののCMでテロ活動まだやってるよ。
なんか、いつものテロ企業の集まりがまたテロCMをやっているので記していくとしよう。
聖者の弟子の殺人に参加している企業だな。
トヨタ自動車 TOYOTA 12/、 1/2 STV 11:44頃、 1/2 UHB 16:36頃
清水建設
アパマンションホールディングス 12/31 TVH 20:30頃、 1/2 HTB 00:38頃
大正製薬 元旦 UHB 13:10頃
スターウォーズのCMで。元旦
KDDI au 元旦 UHB 13:20頃、 1/2 HBC 16:12頃
シチズン CITIZENN 元旦 STV 15:25頃、 1/2 STV 00:09頃
日本ハム Nipponnham 元旦 HTB 16:18頃、 1/2 UHB 16:37頃
アルペン AlpenGrop 元旦 HTB 16:25頃、 1/2 UHB 11:38頃
びっくりドンキー 元旦 TVH 16:47頃
東京 ディズニー リゾート Tokyo Disney resort 元旦 HBC 22:40頃
シャープ SHARP 元旦 HBC 22:40頃、 1/2 STV 16:16頃
日産 NISSAN 元旦 HTB 22:48頃
三菱電機 Mitsubishi Electric 元旦 HBC 23:45頃
KLab株式会社 1/2 HTB 00:35頃
ハウス食品 House 1/2 UHB 11:50頃
バラク・フセイン・オバマの映像 1/2 UHB 11:54頃
駅伝 1/2 STV 12:02頃
パナソニック Panasonic 1/2 HTB 18:27頃、1/2 HTB 21:47頃
ホンダ HONDA 1/2 HTB 21:21頃
テロ側の、まぁ、集まりの歌とか聞いてても、やっぱり昔から汚れている。
善悪の分別ができていない妖術者が集まってどこを目指してたんだろうかな。
あんまり興味はないけど。
無知な企業を悪く利用して、悪行を重ねているという、その悪業。
そういうのに、絡まれるのも宿命だったのか、と。
テロ側の汚れた歌とか(一昔前の歌ね(動画ではなくCD))聞いてると、そういうのに狙われてる俺って本当に天人だな、と思うわ~。 (←歌の内容から見ても、テロ側の集まりが明らかに、汚れているので、その心が汚れていて、清浄ではない、という歌等を聞いて、そのような悪行者達に意味もわからずに狙われているので、その比較として、自らと、自らの側が天人だと思ったということであって、一応、驕っているつもりは、とくにない。テロ側の存在の愚行・悪行を見ていると、いつものように普通に思ってしまう。が、再び言っておくけれども、驕っているつもりは、とくにない。ちなみに、これは、聖者方から見れば驕りである、と、そういうこと。)
知らないうちに狙われてるからね。(普通は)びっくりするよね。
その悪業を重ねている愚かな妖術者達がどこからどこまで清浄な教えを見知ってやっているんだろうか、と。
その昔の汚れた歌から、現在の悪行を重ねているところを見ても、真っ暗闇だろうというのは、想像に難くない。
真理もほとんど見えていないというのに、自分達の妖術、魔術の方が、聖者方より力が上だとかで自惚れるのは、無知で愚かな驕りでしかない。
仏陀の弟子で破門されたデーヴァダッタも神通を得たが、その神通を悪用して大地獄へと堕ちている。
テロ側の妖術者も妖術・魔術を利用して、悪しき者達と共に、仏陀の弟子を苦しめ悩ましている。
自分達が悪業を犯しているというのは、理解するべきである。
まぁ、理解ができなければ、悪業をかさね更なら地獄へと堕ちる、と。
神は悪しき者達を容赦なく、善業から突き放しているのかもしれない。
私が思う以上に。
恐ろしいもんだよ。
何度も言っているけれども、私がポックリ逝っても、テロ側の愚行者も残り数年、数十年の人生しかないんだよ。
理解できるだろうか。
健康寿命(元気に社会生活を送る寿命)で言えば、もっと短いわけだ。
健康寿命を過ぎれば、もうヨボヨボのおじいさんおばあさんになって現役も引退。
そして、悪業を重ねた者は、後悔と死への恐怖がつのる、と。
若いときに、悪業を重ね、調子に乗って、死後はほぼ地獄へ行くだろうと思われるような行いをしてしまい、後悔と死への恐怖がつのり、
若いときに、善業を重ね、調子に乗らず、死後はほぼ天へ行くだろうと思われるような行いをして、後悔と死への恐怖はほどんとない、という人とでは、
どちらが、心安らぐ死を迎えるでしょうか。
真理として、両人のその行いの違いは、死後にとても大きな差が生じる。
とても大きな差っていうのは、ものすごい大きな差だよね。(例えば、盲目の亀の譬え)
あなたは、そう思わないだろうか。
H28年1月1日(2016年)
あけましておめでとうございます。
このHPで、正しいゴータマ仏陀の教えを知り、そして、善なる心を生じ、悪を厭い離れる心を生じた諸々の人が、正しく、ゴータマ仏陀と仏陀の教え・真理へと導かれますように。合掌
私は、日本が善く見られているのは、仏陀のおかげであると思っている。
仏陀と仏陀の理法・真理と仏陀の僧伽の方々。
そして、イエズス。
クリシュナムルティさん。
他、多くの聖者・聖人方のおかげである。
本日も、年末から元旦にかけての放送でもすでに、テロ側の悪しき者達は、仏陀の弟子を殺そうと、衆生を洗脳しようと工作もしているが、
そのような大局を見ることもできないでいる。
社会での大局というコンパクトな枠から、自らの輪廻という本当の大局をも見ることがない。
それは、何故であるか。
悪法を盲信して、悪心を生じ、そのように悪業を積み続けているが故である。
その悪業の報いは悪い。
人は、悪法を悪法であると知り、悪法を厭いなれ、善法を学び、善心を生じ、善業を積み重ね続けるべし。
その善業の報いは善い。
現在の日本は、大乗の仏教の教義を信仰していて、このHPで説いている本当のゴータマ仏陀の教えである、小乗・清浄仏教を教えているところは─少ない。
その中で、小乗経典を説いている人でも、禅定の意味するところを理解できていないので、迷っている人もいる。
キリスト教の信徒も少なく、聖書を持っているという人も少ない。よって、イエズスの言葉を知っている人も少ない。
日本神道の教義も、神社の系統によってもいろいろ真理とされる教義が説かれているが、その多くを見ても迷うだろう。自らの先祖の家系図を記しているものを教えとしているというところもあり、その中から仏陀の説く真理・理法に相応する教えは見られ難い。
仏教の菩薩との混淆について見ても、真理・理法に相応する教え自体でもなく、真理・理法に迷っているというのも、理解できる。
テロ側の存在で本当のゴータマ仏陀の教えである清浄仏教を持っているように見せかけて、自らのイメージを良くするためだけに、二枚舌を用いて、そのことを利用している者も見られるが、
悪業に加担しているその賤しい者は、本当のゴータマ仏陀の教えである清浄仏教の八聖道からは遠く離れている。
そのような中で、日本の政府(外務大臣岸田文雄が悪語を言っているのを聞いた。前の太郎は、麻生太郎のこと)なりも小乗・清浄仏教を弘通する仏陀の弟子を殺そうとまでしているが、これからどこへ向かおうとしているのだろうか。
悪しき者には、仏陀の説く教え・真理は理解し難い。また、ほとんど見えない。
そして、イエズスの教え・真理も理解し難い。見ても、見えない。聞いても、聞こえないのである。
本日も目が覚め、朝元旦から、羽鳥慎一の番組でやってた。羽鳥慎一自身のことではなく。
悪しき者、そして、偽善者よ、お前の悪業はすでに、善なる存在の知るところである。
その報いは悪い。
多くが悪しき者に導かれている結果を見なさい。
身近なことで言えば、元旦のTV番組も罵詈雑言で大荒れになっている。
多くの物知らぬ人々が、悪しき者に導かれている途中段階だな。
悪趣へと堕ちる人々は、悪行、悪語、悪心を生じて悪趣へと生じる。
こちらは、独りで仏法・真理を守り、真実を語っているのである。
TOYOTAが仏陀の弟子の殺人に参加しているというのも、実際CMでやっていたから、記しているのである。
あなたがたは、自らで悪行を重ね、自らで悪趣への穴へと堕ちている。
いやぁ、年末から元旦にかけて、ゆく年くる年も、見てたけど、ひどい罵詈雑言を言っていたからね。
NHKもだいぶ、汚れてしまったようだ。
(司会者がマイクを手に何度も言っていた。NHK自体がテロを助長している。その紅白歌合戦という番組はNHKの冠番組だろうから。)
テロ側のTV番組が悪口で満ちている。
で、また、あなた方はどこに導かれて、また、誰に導かれてそのような悪行を犯すようになったのか。
あれ、紅白の司会者だったのかな。
どれ、検索。
やっぱり司会者で、間違いない。
それでは、仏陀と仏陀の理法を善く思うという企業も記していこう。(私自身の事を善く言ってくれていたところもあったが、私自身の事ではない)
ローソン LOWSON 1/2 UHB 00:27頃
ハウス食品 house 1/2 UHB 10:50頃
アンファー株式会社 1/2 UHB 11:30頃
二枚舌とか、ガンだから殺すなとかいっている企業は、正道にない。
スターウォーズのCMで殺せって編集してる。
一応、記しておくけれども、仏陀の教えとして、また、聖者の教え・真理として、テロ側の悪業者は本当に正道にないからね。
うかれて悪行をしているみたいだけれども。
地獄の話は、仏教だけでなく、聖書外典にも克明に記されている。イスラム教の言葉で言えばゲヘナ(地獄)。
その話をすれば、その話の中でも、地獄に堕ちた者が、苦しみの中で、「私達は地獄というものが本当にあるとは思いませんでした」とか
「このようなことであるならば、生きているときに悪行をしませんでした」、「どうぞお許しください。私達を憐れんでください」というように、天使に請う場面も記されているが、
地獄に行ってから、そのように請うてももう無駄なこと。
天使に一蹴され、相手にされず。
テロ側の存在は、真理を聞き、その下で、聖者の弟子を殺そうとまでしているわけだ。
テロ側の存在として悪行をしているあなたは、現在、自分がどのような状況にいるかが理解できるだろうか。
地獄はあるかないか、ではなくて、真理として地獄というところは存在する。
そして、善なる存在が出生する、天上の世界もある、と。
元旦、ちょっと出かけて、
では、ちょっと考えてみるか。
カトリックのローマ教皇は神は新しいことを恐れないという、果たして神は新しいことを恐れないのだろうか。
同性婚、同性の恋愛はあるのか、ないのか。
神は男性と女性を創られた。
男性と女性で一つ。
男性と男性で一つ。女性と女性で一つとなるように創られたのだろうか。
もし、神は新しいことを恐れない。なので、新しく神の認めてはいない事柄を行おう。
というので、人々が悪処へと堕ちるようなものを教えとしてひろめてしまったのであれば、
その悪い業の、その責任はその教えをひろめた人にも生じてしまう、と。
そのことによって、その人自身が苦を受けることになるのである。
神は男性と男性で一つ。女性と女性で一つ、となるように、人を創られてはいない、と。
そういうように、答えは、
すぐ出た。
普通の問題の答えはすぐ出ちゃうけれども、
今日も身体の調子が悪いからな~。胃のところが痛いときは激痛だから、その事柄をテロ側の妖術者達とその悪しき者達とは洗脳した者達とともに楽しんでいる。 (←勘違いしないように追記、これはローマ教皇はこの対象として入っていない。そして、そのように言っているのではない。)
テロ側の存在は、聖者方の側の存在であれば、あえて滅するような悪しき快楽を享受している。
H28年1月2日
テロ側の悪行が酷いのが理解できるだろう。
そして、その愚かな悪しき行いも、今に始まった悪行ではない。
H28年1月3日
テロ側の存在に関して
自分達が悪行をしていることを見て、自分達が善なる存在に導かれているのではない、ということ知りなさい。
と、そういうように、出た。
普通に見てても、テロ側の能力者・妖術者・魔術者も、完璧に正道から外れている、善なる存在ではない。
人々を悪行・邪心へと導き、そして聖者の弟子を殺そうとして、邪念をひろげたその悪業は重いだろう。
普通に考えてもね。
人々を盲目にさせるその業。
善なる存在は、そのような悪しき業を行わない。
以前に、記しているけれども、現在のテロ側の存在の行動・意識・集団意識をみれば、私の、以前何度も言っていることが理解できるだろう。
集団意識として、幼稚になった意識と盲目への陥り。
真実すらも、見えてはいないのに、愚かな行いをしたもの・愚かな行いをしているものが英雄的気分になるという集団意識、ようするに、個人であれば、行わない良識の欠如した行いを、集団意識に加わってしまうやいなや、その善なる意識、また、良識ある意識もまた、見失って見えなくなる。
社会的集団として、テロ側の存在は、良識を失っているのというのが、誰の目にも明らかだろう。
以前に記しているのは、そのような事柄である。
以前にも、テロ側の存在は、すでに本当の悪魔達に導かれているから、心して取り組みなさい、と忠告しているのに、あなた方、人の忠告ホントに聞かないよね。
悪魔が集団の意識を操るのは仏典にも記されていることであって、まぁ、悪しき者の行いから考えても、常套手段だろう。
テロ側の能力者・妖術者・魔術者も、あれだけ完璧に正道から外れているようでは、話になるレベルではない。
悪魔に対抗する力なんて、どう見てもないだろ。
逆に、悪魔に心をとられて、悪魔の業を現に行っているという、そういう状況の話。
しかしな~、こういう場合は、どうだべなー。
う~ん
それでは、善行者と悪行者にも関する
真理・理法を正しく実践・修学する人と邪まに実践・修学する人との違いについての教え
教えを正しく実践する人と、邪まに教えを実践する人との大きな違いについて
本日、ちょっと出かけて、
ではまた、ちょっと考えてみるか。
今日は、昔のそのCDというのから、LoveRingというその、私が昔から狙われている(見られている)って言ううちの一枚のCDを聞いていたが、
10月18日に記している彼女のことなんだけども、ハッキリ言って、大好きだった女性Nさんであるが、
数年間でこのCDを何回も聞いて、謎に思っていたが、今日も聞いてて、
どうやら、彼女は言うとおりに動いていたんだろう、と思う。
このCDは彼女と一緒に聞いていたCD。(このCDを聞こうと車と家中を探してもなくて、その後、昔を思い出して、CDの名前を忘れたのでネットで探して改めて購入。そして、改めて聞いたら、やってたので、かなりいろんな意味でショックだった・・・。)
まぁ、主要犯でなく、テロ側の指示通りに動いていたってことだと思われる。
しかし、他のCDの歌とか聞けば、また、微妙だからね。
と、いつものように思った。
ちなみに、何れかの者によって指示され、動かされていたとしても、こっちとしては、相変わらず、全然意味はわからない。
(どうなっているんだか全然わからないけれども、私個人として、このNさんを信用したい、と思ってはいる。
が、しかし、結局は、意味がわからないので、謎と疑念で堂々巡りになる。ふと昔のことを思い出すと、いろんな意味で、悲しい。
Nさんとは高畑や九尾の狐の件での騒動の後、たしか何度か会って後、疎遠になった。悪しき者達が騒ぎ始めてから、九尾の話等を彼女に会ったときにそのことを彼女に言わずに疎遠になったので、言っておけば良かったと後から後悔して、その後、共通の知人がいたこともあり、手紙で事の内容は一応伝えた。
が、しかし、九尾の狐よりも更に前から狙われているようなので、一体どういうことだ、ということ。
彼女と疎遠になった後、テロの悪しき者達が騒ぎ始めた。というか、気づいたのが、たしか、その頃からだ。気づく前から、TVとかラジオのメディア関係者に、もう私はストーカーされていたんだろうか。そこまでは、わからない。
ちなみに、騒動の後、会いに行ったら、話をするのにも、ものすごい拒否をされたので、拒否をされているのに強引に「話をするぞ」、なんてことをしていたならば、ストーカーだと思われるから、私はストーカーだと思われたくもないので、もう話をしに会いにいくつもりもない。だから、Nさんがどうなっているんだか全然わからない。
Nさんが拒否せずに話をするならば、私は普通に話をしてもいい、というか、こちらは聞きたいことは山ほどある、と。
Nさんについてはそういうように私がすごい拒否されている状況、なので、Nさんと私はグルになって悪巧みをしているとか、もしそういう話があったとしても、そういうこともありえません。)
あと、テロ側の存在が私のことをガンだガンだと騒いでいるが、たしかに毎日のように激痛がある。
そして、朝起きたら、口が硫黄のにおいでとても酷いし。
病状はかなり深刻。
テロ側の存在はもっと苦しめるって言っているのも聞くし。
テロ側の存在の集まりはそういう心を持っている者が集まっている。
この意味のわからない絡みの人生は一体何なんだべっていう感じでもあるが、
何なんだべな、と。
そして、仏陀の教えは、私は仏陀の教えによって、以前から何度も何度も忠告をしていたのであるが、テロ側の存在は、いいだけ悪業を重ねて、すでに仏陀の弟子も死にそうな勢いである。
その仏陀の弟子とは私のことであるが。
仏陀の弟子に対するその悪業はとても重いだろう。というのは、自分達でも理解はできることだろう。
そして、すでに、仏陀の弟子は悪行を受けているのであるから、テロ側の存在はその悪業を消滅させることも、基本できないだろう。
ここで、私が亡くなったとしたら、テロ側の存在で罵詈雑言を為して仏陀の弟子を苦しめ悩ました者達は、その悪業に応じて、その悪業によって、悪趣へと堕ちることだろう。
真理を知り、そのような悪業をしたならば、地獄や悪処へと堕ちるというのも知りつつ、その行いを為すというのは、言い逃れできるような立場でもない、というのも理解できるだろう。
またさらに、そのように悪業をした人は地獄や悪処へと堕ちる、堕ちて後、悪い輪廻の流れにも入ることだろう、ということをも知って、その人がそれでも行ったその悪業は、
後から後悔して、「どうぞお許しください。私達を憐れんでください」と言って、仏陀でなく、神に救いを求めたとしても、神でももう救う立場にない。
その逆に、教えで言えば、神はその愚かな人を裁くだろう。
テロ側の存在の悪行をした人は、現状ですでに、そのような悪業を受ける原因となる悪行をすでに行っている。
そして、では、天と人との救いの導きである真理・理法を見れば、どうであるのか。
上記の教えにあるように、たとえ教えを知っても、教えを正しく実践する人と、邪まに実践する人とでは、教えにあるとおり赴く境界は全くことなるのである。
というように、テロ側の本人達は浮かれて気づけていない様子で悪業を重ねたが、すでにそのような酷い状況に陥っているのが、テロ側の存在。
要するに、本物の悪魔にも導かれ、そのように浮かれて悪業を犯したので、もう神でも救えないということ。
私の修学した教えを、いろいろと考えて、そこからのその究極的に、生命をすでに落としている(ような)状況から救われるため、には、
というように考えてあげても、ハッキリ言って、仏陀の教えに反して仏陀の弟子を亡き者にしようと悪業をしているので、すでに完璧にないが、
自ら真理を知り、神に救いを求めたとて、神から裁かれるという立場に、現実にすでに立っているので、もう(その悪業においての)救いの道はない、と言っても過言でもないだろう、とも言える。
が、しかし、仏陀の弟子として、仏陀の慈悲を受け、わたくしも考えてあげると、
救われる道、というか、悪業が軽くなるという道はある。
それは、その仏陀の弟子を助けること。
その仏陀の弟子とは私のことであるが。
これは、私が救ってもらいたいから言っているのではないか、とも思うかもしれないが、
ハッキリ言って、私も死ぬよりも、病気を治して修学をするのが善いが、
そのような、わたくしの思いと別で、実際に仏陀の教えとして律にある。
テロ側の存在は、悪業をすでに犯しているが、悔いの心を生じて、「殺してはならない」と言って、殺しを止めさせ、殺しを止めることを承諾させて、仏陀の弟子を救えば、悪業は軽くなるだろう。
誰かが「その人を殺せ」、また「殺されなさい」と叫んでも、悪業となり、
また、「殺せ」と命じてその人が殺されたならば、命じた人と殺人を犯した人のその悪業はより重いものとなる。(日本から命じる、海外から命じるというような距離は関係がない。)
また、策して、毒、道具等の物でもって殺そうとして、そのような行動をしたならば、そのような行動に移すというところからすでに悪業は生じている。
そしてまた、その人が殺され亡くなったならば、その悪業はより重いものとなる。
戒律として、比丘がそのように人を殺してしまうという悪業を犯したならば、波羅夷として、教団追放となる。
前述
『懺悔の認められない罪〔波羅夷罪〕
「波羅夷とは、あたかも頭を断たれた人が、再び身体と結合して生き得ない如く、同様に比丘が不浄法を行ぜば、沙門に非ず、釈子に非ず。この故に波羅夷という。
波羅夷とは、あたかも枝より落ちた枯葉が、再び緑になること能わざるごとく、この如く比丘が一パーダ以上の物を盗めば、沙門に非ず、釈子に非ず。この故に波羅夷という。
波羅夷とは、あたかも割れて二分せる石は再び合すること能わざる如く、この如く比丘にして故意に人間の生命を奪えば、沙門に非ず、釈子に非ず。この故に波羅夷という。
波羅夷とは、あたかもターラ樹が頭を切られたときは、再び親頭が成長せざる如く、この如く比丘にして悪心にして、空無の上人法を得たりと説けば、沙門に非ず、釈子に非ず。
この故に波羅夷という。」
「波羅夷とは、法智において退没・堕落して、道果の分なし。是れを波羅夷という。
是の如く未知智・等智・他心智・苦・習・尽・道智・無生智(等の)彼の諸智において退没・堕落して道果の分なし。是を波羅夷という。
波羅夷とは、涅槃において退没・堕落して、証果の分なし。是を波羅夷という。
波羅夷とは、梵行において退没・堕落して道果の分なし。是を波羅夷という。
波羅夷とは、犯すべき所の罪、発露悔過すべからず(懺悔の路なし、認められない)。故に波羅夷という。」』
このように、『「全て有能なる者は、不死の教えによって悟るが、全て無能なる者は、不死の教えによって破滅し、堕落します。」』
仏陀の教えである、盲目の亀の譬えをも見て知るならば、これは、あなたの、六道輪廻に生じる存在としての大きな分岐点・審判となるでしょう。
あなたは、仏陀と、神の教えを持って、人を救いますか。
H28年1月4日
本日は、
昨日の話で、昨日の話は重要・重大なる内容なのでここでは、精確に記さないと、私の悪業・悪作ともなるだろうから、
昨日の文章の箇所で、『生命をすでに落としている(ような)状況』に修正。
ここで、私が言う生命とは、生命をもつ者は、有能なる者として。生命を落としている者は、無能なる者として解かれ、
また、聖者・聖人の、真理の教えでいう生命としても解く。
仏陀の弟子を殺すという悪業をすでに行っていることにおいて、『生命をすでに落としている状況』、また、『生命をすでに落としている(ような)状況』と言い、
また、その悪業を行ったが、悔いて、殺さず、悪業を遂げずに、悪行を捨てられる状況において『生命をすでに落としている(ような)状況』と言い、
悪業を遂げた状況において『生命をすでに落としている状況』と言う。
有能なる者として、生命〔不死・仏陀の不死の教え〕をもつ人々・仏陀の教えを正しく実践する人々は、真理を悟ります。
H28年1月5日
本日は、
しかし、独りで仏陀の教えを護るのもちょっと、たいへんだな、と。
現在、我、思ふ。
喩えば、
見てても、多くの人々が、悪しき誘惑によって悪流へと流されて行っている。
仏陀の教えによって、自らと、法とをよりどころとしている人々は流されずに聖者・聖人のところにいる。
悪流に流されてから、かろうじて上ってきた人は、悪流で汚れて来てるから、上ってきても、教えが見えていない。
さきに、悪流に流されて着いた心の汚れを浄らかにしなければ、教えを見ても見えないのだろう。
悪流に流されて、生命を落としそうになっている者もいるので、その餓鬼・畜生・地獄の暗闇の穴の流れに堕ちそうな人を、
仏陀の弟子として、何度も普通に助けに行って、手を差し伸べているんだが、人によっては、私を見て、悪流に落としに来たと思う人もいるようす。
まぁ、そういう人は少ないが、自ら好んで餓鬼・畜生・地獄の暗闇の穴の流れに、喜んで堕ちていく無知な人も多くいる。
そのように、悪流に流されて、すでに生命を落としている者、餓鬼・畜生・地獄の暗闇の穴の流れに堕ちこんだその人は、
もう私たちのところである、仏陀の集まりのところ・聖者・聖人のところ・人のところに上ってくることもほとんどないだろう。
永遠の期間として見れば、上ってくることもあるだろうが、そのような者は、再び餓鬼・畜生・地獄の穴の流れに堕ちていくことが多いらしい。
そのように、餓鬼・畜生・地獄の穴の流れに堕ちた人々は、自らの意思で穴からでることはもうできない。
その穴を見ている存在もいて、その存在が出ることを許さない。
しかし、その穴を見ている存在は、悪流に流されていない私たちの言う言葉であれば、聞いてくれることもあるという。
仏陀の弟子の話では、親縁の人が餓鬼の境界で苦しんでいるのを、布施の功徳によって救うという話もある。
神が話を聞いてくれる能力。
神々と対話する能力。
存在を救う力。
仏陀の弟子の方々は、普通に神々と話をしているが、仏陀と阿羅伽の聖者方の場合は、神々に真理を説くような立場なので、
神々の方が話を聞いてもらって(、自分の言を是認されて)喜んでいる。
遠くに、悪流の流れの近くで、悪魔と対話している人もいるが、あれは、悪魔がその人を悪流の流れに落とそうしているところだな。
あの悪魔と対話をしている人は、そういう状況にいるけれども、昔から、世の中の真実というものを探して、魔術の本を見つけ、
魔術を修学して、やっとの思いで、あそこの悪流まで来たらしい。
まぁ、こっちから普通に見て、長いこと悪魔に誘導されてあそこまで行ったんだろうな、と。
う~ん、そうだな、魔術の本を見つけたあたりからすでに、悪魔が誘導に入っているな。あの様子では。
途中で、善い存在に会えば、気づけただろうに、会えなかったんだろうかな。
まぁ、しょうがない声をかけてやるか。
『おーい、そっちは危ないよー、ちなみに悪魔があなたのところで何かしようとしてるのが見えてるよー』
あれ、聞こえたかな。
あ、悪魔が消えた。
あの人、悪魔に気づいたみたいだ。
よく一言で気づけたよな。
一言で気づける人なんてあんまりいないんじゃないかな。
まぁ、以前から疑わしいところも多々あったのだろう。
でも、長いこと悪行をやっている存在を、悪魔だと気づけない人もいるから、
あの人、やっぱりよく気づけたわ。
あ、あの人こっち来るわ」
仏陀の導きによって、悪魔の誘惑に気づき、そこから逃れられるかどうかは、その人自心にかかっている。
仏陀は道を導き示すが、その道を歩くのは、その人自身だからです。
H28年1月6日
本日は、
あなた方、テロ側の存在者達。
あなた方が争っている相手が、何であるか見えていないのですか。
以前にも、忠告をしているでしょう。
また、仏陀は教えとして、このように説かれている。
前述
仏陀の教え
『「比丘たちよ、世間に生まれているこれら三種の人々は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のため、に生まれている。
三種とは何か。
比丘たちよ、ここに真理の体現者、尊敬される資格の者、正しく目覚めた者、智慧と行為がそなわった者、善くさとりに到った者、世間・出世間を知る者、至上の人、人々を制御する御者、諸天神と人々との師、目覚めた者・世間から尊ばれる者が、世に生まれている。
目覚めた仏は、初めに善く、中間に善く、終わりに善い教えを説き、内容もあり、文句(義)も備わった教えを説き、純粋で完全な、浄らかな修行を明らかにする。
これが、比丘たちよ、世間に生まれた第一の人である。彼は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている。
また、比丘たちよ、師の弟子である聖者がいる。
彼は心の汚れを消滅し、すでに完成し、なすべきことを為し終わり、心の重荷をおろし、自己の目的の到達し、迷いの生存の束縛を滅して、正しい完全智によって完全な精神的自由を得ている。
彼は、初めに善く、中間に善く、終わりに善い教えを説き、内容もあり、文句(義)も備わった教えを説き、純粋で完全な、浄らかな修行を明らかにする。
比丘たちよ、これが世間に生まれた第二の人である。
彼は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、多くの人の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている。
さらにまた、比丘たちよ、、その師の弟子である修学者がいる。
彼は道を修め、多くを学び、戒めを守ることを身につけている。
彼もまた、初めに善く、中間に善く、終わりに善い教えを説き、内容もあり、文句(義)も備わった教えを説き、純粋で完全な、浄らかな修行を明らかにする。
比丘たちよ、これが世間に生まれた第三の人である。
彼は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、多くの人の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている。
まことに比丘たちよ、世間に生まれているこれら三種の人々は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている」
師こそが世における第一の偉大な聖者(仏陀)である。
また、師に従う弟子は自ら道を修める者である。
さらにまた、修学者も道を修め、多くを学び、戒めを守ることを身につけている。
これら三人の天神と人との師は、燈光をもたらし、教えを説く者であり、不死の戸を開き、多くの人を束縛から自由にさせる。
最高の指導者によって説かれた道をたどり、善くさとりに到った仏陀の教えに精励する者たちは、まさにこの世で苦しみを消滅する。』
あなた方は、あなた方を救い(多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との義と利のため、幸福・安楽のため)に来た、私たちと争い、悪魔の業を行い、その仏陀の弟子を亡き者にしようとまでした。
前述の仏陀の教え 教えを正しく実践する人と、邪まに教えを実践する人との大きな違いについて
この教えで言えば、あなた方はどのような道を進むでしょうか。
人々を制御する御者、諸天神と人々との師、全ての生ける者たちから不利益を遠ざけ、利益を与える方、仏陀によって、あなた方は救われるでしょうか。
許される過ち、許されない過ち
許されない悪行。
波羅夷。
人として、決して犯してはならない行いというものがある。
『「大王よ、それでは、大工が材木を、ただ見守っているだけならば、彼は材木をまっすぐにして、使用し易いようにすることができるでしょうか」
「尊者よ、そうではありません。尊者よ、除くべきところをとり去って、このようにして、この大工は材木をまっすぐにして、使用し易いようにするのです」
「大王よ、それと同様に、如来が説法を聞く会衆を、ただ見守っているだけならば、さとるべき人々をさとらせることはできません。
そうではなくて、邪まに実践する人々を遠ざけて、これらのさとるべき人々をさとらせるのです。
大王よ、しかも、彼ら邪まに実践する人々は、自己の為した行為によって、悪の生存に堕します。』
このように、邪まに実践する人々は、自己の為した行為によって、悪の生存に堕すのです。
また、神はあなた方の望むままにあなた方に自由を与えているという。
そして、あなた方は真理を知り、自らで悪魔の業を行った。
『彼ら邪まに実践する人々は、自己の為した行為によって、悪の生存に堕します。』
わかりますか。
神はその人に自由を与え、その人自身に自らの赴く先を選択させているという、そして、
悪行の結果は悪処・地獄へ堕ちるということを知りつつ、邪まに実践した人々は、
その自己の為した行為によって、悪の生存に堕します。
神はそのような人を救わないだろう。
また、神もそのような人を救えないのです。
そして、神が救えないのであれば、イエズスもそのような人を救うことはできないのです。
イエズス
『君たちは清い、しかしみんなが清いわけではない』
清い人と、清くない人。
『聖なる父よ、あなたが私にお与えになった彼らをあなたの御名によって守って下さい、それは私たちが一つであるように、彼らが一つになるだめです。
私が彼らと一緒にいた間は、私はあなたが私にお与えになった彼らをあなたの御名によって守り、そして保護しました。
聖書(の言葉)が成就されるために、滅びの子以外に彼らの中の一人も滅びませんでした。』
このように、悪魔の誘惑に陥って、悪業を為した人が滅びた。
悪魔の誘惑に陥って、悪業を為してしまった人は、滅びるのです。
わかりますか。
あなた方は、悪魔という実在する存在について、きちんと理解するべきである。
『魔羅・悪魔
Ma-ra略して魔という。殺す者の意。または、一切の障り、悪魔などと訳す。
心身を悩乱し、善法を妨げ、人の功徳の財を奪って、智慧の命を殺すものに名づける。
即ち、生命を奪い、善法・善事を障げて、仏道の障礙を為すものをいう』
あなた方は、悪魔の誘惑によって、悪業を重ね、すでに弁解の余地がない。
悪魔という存在は、私やあなた方を社会的な生活において苦しめるというのが、真の目的ということなのではないのです。
悪魔が社会的な生活において苦しめるというのが、真の目的であれば、人々に、貪欲を起させ、快楽を貪らせるということもないでしょう。
仏陀の教え・真理として、貪欲によって、人々は悪処へと導かれます。
要するに、悪魔という存在は、人々を誘惑して、悪業へと導き、その人を、あなたという存在を、輪廻としての破滅・地獄に堕とす存在なのです。
これらの事柄から、悪魔という存在について理解されただろうか。
あなた方は仏陀を、仏陀の言葉を信じていない。
しかし、はっきり言って、
輪廻をも見る聖者方。その天も地獄も、また、人々の輪廻をも見ることのできる聖者。
その聖者の教え・仏陀の教えこそが、あなた方が救われる道なのです。
たとえば、真理を知らない世間の霊能力者は、他の社会的な生活のために悪霊を祓い、他を助けることもあるだろう。
また、愚かな霊能力者は、自らの社会的な生活のために、金銭や、名誉を貪り、悪の生存へと赴くだろう。
世間の霊能力者は、他の社会的な生活のために他を助ける。
それはそれで、とても善い。
しかし、仏陀とイエズスと他多くの聖者・聖人、クリシュナムルティさんも、そのような社会的な安らぎのためだけに教えを説いているのではない。
そして、社会的な快楽(貪欲)のために教えを説いているのではない。
その天も地獄も、また、人々の輪廻をも見ることのできる聖者・仏陀と、また、輪廻を見る多くの聖者方。
聖者・聖人方は、そのように、悪魔という存在と、その悪魔の業というものをも、見通して教えを説かれる。
しかし、世間・世俗の、真理を知らず、天も地獄も、また、人々の輪廻をも見ることのできない霊能力者、
その四聖諦を知らない世間の霊能力者は、悪霊は見えるだろう、がしかし、悪魔という存在とその悪魔の業と、聖者が説く善行とを、分別することは難しいだろう。
なぜならば、本当の悪魔は、その四聖諦を知らない世間の霊能力者からは、天使のようにも見られるからである。
『「好ましく、いとおしく、心地よい一切の色形や音声や味や香りや感触や思いは、 それらが、存在していると言われる限り、
快いものだと、神々や世の人々は一様に思い込んでいる。そして、それらが 消滅したとき、かれらは一様にそれを苦しみと思う。
一方、聖者たちは、存在していた心地よい色形などの集まりが消滅することを 安楽であると見なす。こういった見方は世間の人々と正反対である。
他の人々が快いと言うものを聖者たちは苦しみと語る。他の人々が苦しみと 言うものを聖者たちは安楽と知る。この理解しがたい道理に目をすえなさい。
目の利かない者とたちはこの点に迷う。
ちょうど、目を閉ざした人には暗闇しかないうように、心の目が覆われている人々 には真実は闇の中である。
しかし、目を開ければ光がさし込んでくるように、
聖者たちは一切のものが顕になっている。道理をしらないものたちは、 傍らにいるにもかかわらず、それに気がつかない。畜生のように。』
このように、仏陀と仏陀の弟子の方々は、すでに悪魔に勝っている。
しかし、世間・世俗の四聖諦を見ない霊能力者は、真理として、苦というものが見えていないために、悪霊に勝てるかもしれないが、本当の悪魔に勝つことは難しい。
これらの事柄から、仏陀と聖者・聖人と、世間・世俗の四聖諦を見ない霊能力者の、大きな違いは理解されただろうか。
悪行者に関して、
『悪い行いをした人でも、後に善によってつぐなうならば、その人はこの世を照らす。雲を離れた月のように。』
悪行を、善によってつぐなうことについて
H28年1月7日
本日は、
病院に行って、胃カメラをしてきました。
経鼻内視鏡という鼻からの胃カメラ。
鼻からの胃カメラは初だったが、カメラ自体の映像は口からのカメラよりも、細い分劣るようだが、口からの胃カメラよりもとても楽だった。
口からのカメラよりも気軽にできる感じ。
病院で、胃カメラをしてもらい、映像のCDももらってきたが、担当医に、HPのことを伝え、「TVやラジオで有名になっている本人です」ということ伝え、
そういう「犯罪者的なのはちょっと」というように言っていたので、「いや、犯罪者はこっちじゃなくて、あっちが、犯罪者集団です」と説明したところ、すぐに理解されたようで、
とりあえず、HPに病院名と、担当医名と、胃カメラの映像はネットに載せないという条件の話で、胃カメラをしてもらった。
胃の方は、以前の写真の荒れたところあたりが赤く炎症をおこしていて、あとは、噴門部が開いたままで、閉じていない状態になっているところも見られて、逆流性食道炎の原因でもあるだろう、と。
丁寧な説明を受け、検査の映像もこころよく了承してくれて、CDでコピーしてくれた。五ヶ所細胞を摂取して、検査結果待ち。
状態として、現在も痛みがあり、そして、痛みがあるときは、においも酷い。病状は良くない。身体を前傾姿勢にすると、痛みが出て、においがするんだよね。そして、一回痛みが出ると、しばらくずっと続く状態。
食事をすると、痛みが消える。そして、食後痛みが出る。おもに空腹時。ちなみに、十二指腸は映像を見るかぎり、問題ない。
胃カメラは、他の病院ですることがあれば、そのときはまた、HPに載せようか、と思っている。
鼻からの胃カメラは、口からの胃カメラと比べて、とても楽だった。
と、検査をして、このような一日だった。
H28年1月8日
本日は、
今日も変わらず、テロ企業のCM、TVからラジオにいたるまで、テロ側の存在が殺人用語を用いて悪行をして、邪念に憑かれている。
今日も赤十字にも叩かれたな。
そうだな。
こちら側の人々は、そういう邪念を見て、そのような悪行をしている者達から離れなさい。
テロ側の存在は、CDで、昔の歌を聞き、テロ側の能力者が、昔から知ってて悪行をやっているということに、テロ側の能力者にはかない希望を抱いている者も現われている様子。
仏陀の弟子にすでに為した悪業を、悪業ではないと否定したいという潜在的な意識を了承したいので、そのようにテロ側の能力者に儚い希望を抱いている者も現われている様でもあるが、そして、その儚い希望からまた再び、仏陀の弟子を亡き者にするという悪行に加わっているものもいるようだが、
そのような者は、自らで理法を見ることがない、または、自らで理法を見ることができないので、(悪しき者にならって)悪行に加わることに至っている。
こちら側の聖者方の方にいる人に言うけれども、そういう私が、昔から狙われているなんてのも、もうすでにHPに記しているように知っていた話であって、その意味のわからない行いをずっと見てきて、そのそういう者達の悪行、邪心を見て、そのような悪行を見て知った上で、仏陀の理法をも説いているのである。
たとえば、仮にテロ側の能力者は、現世の数年、数十年を見れるとしようか、一方、仏陀や聖者方は、現世をも見るが、そういう段階の話でなく、何世もの輪廻を見て、仏陀は、更にその存在が涅槃に至るまで見られる。
数年先を、予知する能力は、畜生でもあるものはあるだろう。しかし、畜生は悟りにいたる智慧もない。
テロ側の存在は、そのような数年、数十年先、または前を見れる能力者がこちら側には付いている、だから、安心。だから、同じように、仏陀の弟子を亡き者にすべく、悪行に加わろう、と。
しかし、そのようなのは、すでに犯した悪業による真理における潜在意識の恐怖からの逃げでもあって、
しかも、その悪しき業を行っている存在にはかない希望を抱き、その悪しき業を行っているものにつき従い、同様の行動を行っている。
同様の行動、要するに、さらに、悪業を積み重ね、さらに、暗闇の悪処・地獄へと導かれている。
しかし、そのような真理に対する無智によって悪業を重ね、その無智により真理に対する畏怖もなく、また、鈍感となり、悪業を重ね、悪処へと導かれている能力者も、
はっきり言って、仏陀や聖者方と、その神通の偉大さ、神通の清浄さにおいても、まったく比較にはならないのである。
悪魔の業から、すでに悪魔に導かれている悪行者・愚かな者が脱することは難しい。
聖者の教えをも聞かず、テロで邪悪な行いを、公共でさらけ出している企業、その関係者を見ていると理解もできるだろう。
私たち、仏陀の弟子と、聖者・聖人の側にある人は、そのような道を決して歩いてはならない。
ちなみに、テロの人達にも言うけれども、戒律で
『テロ側の存在は、悪業をすでに犯しているが、悔いの心を生じて、「殺してはならない」と言って、殺しを止めさせ、殺しを止めることを承諾させて、仏陀の弟子を救えば、悪業は軽くなるだろう。
誰かが「その人を殺せ」、また「殺されなさい」と叫んでも、悪業となり、
また、「殺せ」と命じてその人が殺されたならば、命じた人と殺人を犯した人のその悪業はより重いものとなる。(日本から命じる、海外から命じるというような距離は関係がない。)
また、策して、毒、道具等の物でもって殺そうとして、そのような行動をしたならば、そのような行動に移すというところからすでに悪業は生じている。
そしてまた、その人が殺され亡くなったならば、その悪業はより重いものとなる。』
は戒律に記されているものであって、私がこう思うという話ではない。
また、テロの存在者は、アングリマーラ尊者のこともあまり知らずに、アングリマーラ尊者の悪行と、自らのその仏陀の弟子を滅ぼさんとするその大きな悪業とを、比較して、自らの悪業は軽い、と思うかもしれないが、
アングリマーラ尊者の場合は、その後、出家して、悪行を償った。
真理について無智であった尊者は、仏陀のもとにおいて出家するという最上の行いを為して、その分の悪業をも受けている。そして、悪業は滅した。
また、アングリマーラ尊者の場合は、妊婦の話によっても理解できるように、通常の人が故意に犯している悪業とはまた別口です。
出家によって、悪の報いはその程度で済んだ、と解される。
テロ側の存在者は、真理を知り、さらに、仏陀の弟子であると知り、さらに他の事柄をも知りつつ悪行をしている。また、悪行をさせている。
そのような事柄からも、尊者と、自らのその大きな悪業とを比較するべきでないだろう。
テロの存在者は、すでに、仏陀の弟子を滅ぼさんとしたその悪業によって、仏陀および、神、聖者、聖人、善なる存在の方へ導くことが難しい。
私たち、仏陀の弟子と、聖者・聖人の側にある人は、悪行者達が仏陀の弟子を滅ぼさんと邪行を行い、邪念を伝播させている、そのような邪念に捕らえられてはならない。
理法によって、邪悪の分別を知り学び、その邪悪を厭離せよ、と。
H28年1月10日
本日は、
─
トヨタは、数年前のトヨタ主催のスノーボードの競技のTV放送でもすでに叩かれはじめていた。
トヨタの悪いことは書いてないはずだが、私の兄がトヨタのことを褒めていたので、トヨタのイメージは良かったのだが、
トヨタがテロ行為をしているから、無くなった。
マークⅡとか昔から車種としてあったが、
マークⅡのツインターボは昔少し乗ってたな。ツアラーVだったかな。
ちょっと、検索
たしかたぶん2.5GTだな。ツアラーVはそのあとに出たのかな。
スノーボードのTV放送のときからすでに、叩いているというのを知られたくはなかったとかか、
トヨタは、何故そのように、仏陀の弟子を亡き者にしようとしているのか。
まぁ、トヨタ車種の MRAK X の話は、どうだか定かでないから、訂正。
あと、今日もうそうだけれども、三井のリハウス(三井不動産)のCMで,先日からテロ活動をやってるけど、
仏陀の弟子を滅ぼさんとするその行いは何なの。
H28年1月11日
本日は、
動画で数学者ラマヌジャンを見て、アインシュタインの名言を見て、アインシュタインは善い言葉が多かったので
その中で、良い言葉だな、または、善い言葉だなと思ったその言葉をご紹介致しましょう。
ネットより
アルベルト・アインシュタインの言葉
『 道徳は最も重要なことです。神にとってではなく、私たちにとって。
どんな時にも私の歩んできた道を導き、折節の厳しい現実にも明るい気持ちで立ち向かえて来れた心がけは何か。第一に人を理解する優しさ、第二に真に美しきもの、第三に真理を求める心、この三つである。
神聖なる好奇心を失うな。
私にとって、宇宙的宗教心は科学的な研究を推進する上での最も強くかつ最も主要な動機でありました。
我々が抱ける最も素晴らしい感情は、神秘的な感情である。ここに全ての芸術と全ての真の科学の根源が横たわっている。この感情に無縁のものは、異邦人であり、驚くことも出来ず、畏怖心を抱きながら生きることも出来ず、死人も同様である。我々に不可解のものが実際に存在し、最も気高き知恵と異彩を放つ美しさとして明白に表れているということを知ることは・・・その全体的な概形のみが貧しい我々の能力で理解できるというこの知識、そしてこの感情が・・・ 真の宗教的な感情の核である。
どんな知的な愚か者でも、物事を大きく、複雑に、かつ暴力的にすることはできる。その反対の方向に動かすためには、少しの天才と、そしてたくさんの勇気がいる。
力は常に道徳に劣る人間を惹きつける。
平和は力によっては維持できない。理解によってのみ平和は達成される。
何も考えずに権威を敬うことは、真実に対する最大の敵である。
同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、それを狂気という。
怒りは、愚か者の胸にしか住み着かないものだ。
人間の邪悪な心を変えるより、プルトニウムの性質を変えるほうが簡単だ。
自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。
いつだって、偉大な先人達は凡人達の熾烈な抵抗に遭ってきた。
自分や他人の命を意味が無いと考える人間は、不幸であるだけでなく、ほぼ生きる資格がない。
愛は義務より良い教師である。
人間の真の価値は、主に自己からの解放(自分からどれほど自由であるか)によって決まる。
人間にとって最も大切な努力は、自分の行動の中に道徳を追求していくことです。私たちが内面的なバランス、そして存在そのものが、そのことにかかっています。行動に現れる道徳だけが、人生に美と品位をもたらします。
道徳の教養なくして人類の救済はない。
たとえ国家が要求しても良心に反することをしてはならない。
神はサイコロを振らない。
神はいつでも公平に機会を与えてくださる。
環境は私とは全く別のものである。
私はいま孤独の中に生きています。若者には苦痛ですが、成熟した人間にとっては、甘美な孤独の中に。
どんな問題も、それが創られたのと同じレベルの意識では、解くことはできない。
年老いて腰が曲がったものには、死は解放としてやってきます。自分自身が年老いて、死を最後には返さなければならない古い借金のようなものだと思うようになったいま、つくづくそう感じます。
神の叡知が知りたい・・・その他のことは取るに足らないことだ。
人類は“宇宙”と呼ばれる全体の一部であり、時間、空間での限られた一部分である。それ以外から隔てられた何かとして、またその意識をある種類の視覚的幻影として、彼は、彼自身や、思考、そして感情を経験する。その幻影は、ある種類の牢獄であり、我々を個人的な欲望に追いやり、数人の近親者への感情の虜とする。我々の使命は、この牢獄から解き放たれ、全ての生けるものや、自然の全てをその 美しさの下に抱きしめる、慈しみ深い熱情の輪を広げなければならない。
観察と理解の喜びは、自然の最も美しい贈り物である。
自分自身のことについて誠実でない人間は、他人から重んじられる資格はない。
異性に心を奪われることは、大きな喜びであり、必要不可欠なことです。しかし、それが人生の中心事になってはいけません。もしそうなったら、人は道を見失ってしまうでしょう。
私は、理詰めで考えて新しいことを発見したことはない。
学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、それこそ教育だ。
方程式は私にとってより重要です。なぜなら政治は当面にかかわることでありますが、方程式は永遠にかかわるものですから。
この世は危険なところだ。悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら、何もしない人がいるためだ。
物事は全て、出来る限り単純にすべきだ。
シンプルで控えめな生き方が、だれにとっても、体にも、心にも、最善であると信じています。
他者のために生きる人生こそ、生きるに値する人生だ
知識人は問題を解決し、天才は問題を未然に防ぐ。
優れた科学者を生み出すのは知性だと人は言う。彼らは間違っている。それは人格である。
戦争のない世界の先駆者たちは、軍役を拒否する若者たちである。
兵役を指名された人の2%が戦争拒否を声明すれば、政府は無力となります。なぜなら、どの国もその2%を越える人を収容する刑務所のスペースがないからです。
野望やただの義務感からは本当に価値のあるものは生まれません。それは、人や対象となるものへの愛と献身から芽生えます。
知恵とは、学校で学べるものではなく一生をかけて身につけるべきものです。
教えるということは、こちらが差し出したものがつらい義務ではなく貴重な贈り物だと感じられるような事柄であるべきです。
専門的な知識を習得することではなく、自分の頭で考えたり判断する一般的な能力を発達させることが、いつでも第一に優先されるべきです。
文明人の運命は、どれだけ力のある道徳を生み出せるかにかかってきています。
愛国主義の名の下に行われる、英雄主義―─命令、意味の無い暴力、そして忌むべき愚行─―それらを、私は激しく憎みます。
私は誰にも何も求めないので幸せでいられます。お金もどうでもいい。勲章も、肩書も、名誉も、私には何の意味もありません。称賛も欲しくありません。私に喜びをもたらすただひとつのものは、仕事、バイオリン、ヨットを別にすれば、ともに働いた人々への感謝だけです。
人々が努力して手に入れようとする陳腐なもの――所有、物質的な成功、贅沢――は、私には少年時代から卑しむべきものに思われてきました。
私は一日100回は、自分に言い聞かせます。わたしの精神的ならびに物質的生活は、他者の労働の上に成り立っているということを。
精神を大切にするというのなら、それとつながっている身体も大切にしなければいけません。』
H28年1月12日
本日は、
耳鼻咽頭科へ行ってきて、その後、呼吸器科に行ってたら、また、テロの犯罪者集団にすごい嫌がらせされたわ。
4時~5時だったかな、5時過ぎだったかな、その時間帯の札幌のテレビ番組(あとでわかったら記す。)を見れば、連携して仏陀の弟子に嫌がらせをしているのがわかるだろう。
テロ側の存在は、一生懸命にする行いが、聖者方とは、あからさまに正反対の方向にに向かって行っているからね。
テロ側の存在の行い見聞きしてれば、ものすごいフルスピードで、聖者方から遠ざかっていっている。
教えを説いても、変化なし。悪行を続けてるわ。
一人の仏陀の弟子に。
しかし、俺もすごいな、と。
仏陀の弟子だから、ここまでできるんだろうな。
聖者方と真理(と對馬) VS テロ側の存在、のあなた。
のような形式だけど、
実際は、
真理 VS テロ側の存在、のあなた。
かな。
真理に歯向かおうというチャレンジ精神というか、その無知・愚かさは、あなた自身を滅ぼすだろう。
テロの者達のせいで日本の印象もガタ落ちだし。
そもそもテロ側の存在のその 真理と聖者方に歯向い、その聖者の弟子をこぞって滅ぼそうとするというその無知、その愚行は、
他の国の、善なる人や、良識ある人、普通の人から見ても、人として最も下劣な人々のなす行いだろう。
『害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪〔い報い〕がもどってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。』
その真理についての恐怖心や、悪魔・悪霊に導かれているということについての恐怖心を、
仏陀の弟子である私にぶつけられても、あなた方自身でフルスピードで悪処へ引っ張られていってるというか、自らで暗闇へ行ってるから、どうもこうもない。
あなた方は、これから、さらに、真理と戦うことだろう。また、自分自身とも戦うことだろう。
自分自身にはすでに、負けているような状態とも言えるだろうが。
悪魔とは、戦うことはないかも知れない。
言い方を変えると、悪魔とは、戦うこともできないかもしれない。
すでに、悪魔の手中にあるので、悪魔というものに気づくこともできない。
テロ側の妖術者・魔術者の行いは悪行である、という容易に気づけるような事柄に、気づけないのであれば、
悪魔の業に気づくことも、ないだろう。
聖者側の私たちは、聖者方に導かれて、神から善い報いを受け、天神・天使からは善くやったというように、讃辞を受けることもありえることだろう。
人生、数十年、短い間であったけれども、善く努力精進した。
努力が報われて、仏陀の教えは、多くの人が理解できるように再び世に説かれた、と。
天神方も大喜びだな。
その喜び、喜ぶのは理解できる。
お、今思いついた。
とりあえず。
話が変わるけれども、テロの妖術者がストーカーで私の思念を読んでいるから、まぁ、先に記す、というか、
記す前にどうにか滅ぼしたいとかいうのもありえるので、先に、記しておくが、
これは、私が、ニュース番組を見てて、別にTVの普通のニュース番組で、多くの視聴者も見ていると思うのだが、
動画ではないだろうけれども、まぁ、別に私としてはどちらでもいいことなのだが、
一つ、あれだな、隣の隣の国のミサイルのテポドンだかノドンだったか、大気圏に出てから、狙いを定めるミサイル開発してたべさ。
そのミサイルに三菱のマークが描かれていた。という記憶がある。
三菱に似たマークかもしれないが、そういう記憶がある。
以上。
テロ側がそういうのを隠そうと私を狙っていたのも一つの要因かもしれないということで、悪しき妖術者が私の思念を読んでいるだろうから、先に記したが、
ニュースでやってたことなので、別にたして重要でもないのかな。まぁ、そこら辺は知らない。
まぁ、そこは、三菱のマークでなかったら、申し訳ない、と先に謝っておこう。
別に、記す気も特になかったが、テロの悪しき妖術者達が私の思念を読んでいるだろうから先に記す。
まぁ、まぁ、テロの悪しき妖術者達が中に入れば、敵対する者達が増えるな。
日本の企業とその関係者のテロの存在と、聖者・聖人方と仏陀の弟子の私との仲介に、悪しき妖術者達が入っているから、余計に険悪な関係になって行くと。
その妖術者は、犯罪者であり、嘘言をしているので、日本の企業とその関係者のテロの存在と、聖者・聖人方と仏陀の弟子の私との関係を悪化させたいという意図だろう。
日本の企業とその関係者も、直接私自身に話しかけて来た方が善いですよ。
悪しき妖術者達が仲介に入っている状態で、仏陀のもとに来ようとすること自体も難しいということです。
仏陀の教えも正しくそちらまで、届かない、と。
テロの悪しき妖術者達が中に入って悪行を重ね、聖者・聖人方と仏陀の弟子の私と、日本の企業とその関係者のテロの存在との間を裂いていることにより、日本の印象もガタ落ち。
そして、真理と聖者方に歯向い、その聖者の弟子をこぞって滅ぼそうとしている者は、
海内の他の国の、信仰のある多くの人から見ても、人として最低な人だと思われるだろう。
こちらは、何度も注意、忠告をしているのだか、テロ側の存在は、悪しき妖術者達にも騙され、私の言葉に耳を傾けない。
悪しき妖術者達が悪行をしているのも、見ればわかるだろうに。
まぁ、直接話合いにくれば善いですよ。
その話の内容も、このHPに載せてもいいので。
話し合いをすれば、HPに載るだろうというつもりで。
いままで、テロ側の存在が、私のところ・仏陀の弟子のところに話合いに来たことは、一度もない。
悪しき妖術者達も影でこそこそやってるけれども、直接こっちに話合いに来ないべさ。
それは、あなた方は、あなた方の悪しき行いが、明るみに出るのを恐れているからだろう。
教えでもそうだけれども、
あなた方は光に来ない。
そして、光(真理)を怖れている。
28年1月13日
本日は、
創価学会、また、CMでやってるよ。
そのような行いを、いわゆる、カルト宗教という。
言い方をやわらかくすればいいって問題ではないだろ。
法華経にそういうことが記されているのか。
札幌学院大学も酷いCMだな。
テロ側の存在のこの札幌学院大学の酷いCMを流しているような者達と、
価値観を共有しなさい、とか、価値観を合わせなさいっていうのは、
こちらとしても、無理。
仏陀の教えとして、そのような悪しき者と親しんでならない。
どう見ても、愚かなCMにしか見えない。
テロ側のその良識とその価値観が、こっちの聖者側から見たら、すごい愚かに見えている。
で、実際教えで言っても、そのような行いを愚かな行いという。
サッカーの国家斉唱の見てたけど。
何。
悪行を捨てて、国で仏教を信仰するのが善いと思うよ。
H28年1月14日
本日は、
とても天気が良い。
さて、今日は。
しかし、テロ側について行った多くの人々が、悪しき者に引っ張られて、堕していってしまった。
う~ん、
何度も忠告をしていたのに。
仏陀の弟子を滅ぼさんとした悪業の報いは、とても悪いだろう。
「大王よ、しかも、彼ら邪まに実践する人々は、自己の為した行為によって、〈悪の生存に〉堕落します。」
「大王よ、それと同様に、如来は一万の神々や人々の世界に、不死の教えの布施をされました。
そして、全て有能なる者は、不死の法施によって悟るが、全て無能なる者は、不死の法施によって破滅し、堕落します。」
聖者の教えにおいて、仏陀の弟子を滅ぼさんとする者は、有能なる者と言われるでしょうか。無能なる者と言われるでしょうか。
仏陀の弟子を滅ぼさんとする者は、無能なる者と言われるのです。
そして、『全て無能なる者は、不死の法施によって破滅し、堕落します。』
真理の教えにおいて、自らの進んでいる道が見えますか。
テロ側の存在は、もう笑っていられるような状況でもないだろう。
聖者方の教えを聞かないで、悪行やっている妖術者の言うことに耳を傾けて、笑っていたからそういう結果だべさ。
普通、テロ側の妖術者の行いを見てたら、悪行をしている悪しき者であって、単なる犯罪者だってわかるから。
いろいろ見てきて思うのだが、フルイにかけるっていうのは、計画としてあったのかもしれないな、と。
いや、地上の人々の計画でなく、天上での。
悪魔もそういう人々を引っ張っていってしまったし。
修験道でも、神霊がそういうように言っていたというのを直接聞いたけれども。以前に述べた話の。
『大王よ、如来は教えを説くとき、愛好と嫌悪と〈の感情によって説くこと〉をせず、愛好と嫌悪から離れて教えを説かれます。
このように〈如来が〉教えを説くとき、そこにおいて正しく〈教えを〉実践する人々は、〈真理を〉悟ります。』
ここで、邪行に加わらず、正しく実践している人々、邪行を捨てる人、他にも邪行を捨てさせる人、有能なる人々にとっては、フルイの話も、たいして気にする必要もなく。
『全て無能なる者は、不死の法施によって破滅し、堕落します。』という言葉も、たいして気にする必要も無く。
まぁ、そのような人は、現在の自分のことではないから、たいして気にする必要はないにしても、自分も悪業を犯さないように気をつけていく、というのは必要である、と。
真理について
『聖書より
パウロ ローマ人への手紙
1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間の、あらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに、明らかにされたのである。
20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造からこのかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって彼らには弁解の余地が無い。
21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなったからである。
22 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり
23 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。
24 ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分の身体を互いにはずかしめて、汚すままに任せられた。
25 彼らは神の真理を変えて、虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである。アァメン。
26 それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然な関係を不自然なものに代え、
27 男もまた同じように女との自然な関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱交の当然の報いを身に受けたのである。
28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と、悪と、貪欲と、悪意にあふれ、ねたみと、殺意と、争いと、詐欺と、悪念とに満ち、また、ざん言〔他人を陥れようとして、事実をまげ、偽って悪しざまに告げ口をすること〕)をする者、
30 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
32 彼らは、こうした事を行う者どもが死に値するという神の定めをよく知りながら、自らその行いを行うばかりではなく、その行いをする者どもを是認さえしている。
2:1 だから、ああ、すべて人を裁く者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めている。裁くあなたも、同じことを行っているからである。
2 私たちは、神の裁きがこのような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
3 ああ、このような事を行う者どもを裁きながら、しかも自ら同じ事を行う人よ。あなたは、神の裁きをのがれうると思うのか。
4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しい裁きの現われる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
6 神は、おのおの、その業にしたがって報いられる。
7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
8 他方では、党派心を抱き、真理に従わないで、不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
9 悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
10 善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、光栄とほまれと平安とが与えれられる。
11 なぜなら、神は、かたより見ることがないからである。
12 そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によって裁かれる。
13 なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なる者ではなく、律法を行う者が、義とされるからである。
14 すなわち、律法を持たない異邦人が自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法をもたなくても、彼らにとっては自分自身〔(善の教えによる)善行〕が律法なのである。
15 彼らは律法〔善法〕の要求がその心に記されていることを現し、そのことを彼らの良心〔善の心〕も共にあかしをして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明しあうのである。
16 そして、これらのことは、私の福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事柄を裁かれるその日に、明らかにされるであろう。』
H28年1月16日
本日は、
また、第一生命に叩かれた。STV 20:10
また、治療の邪魔しようとして、無実の仏陀の弟子を叩いている。
治療する関係者をも叩いて、治療をさせないようにする、というのもテロの者達のパターン。
そのようにして、治療をさせないようにして、殺人をするという、殺人集団。
犯罪者にはかわりない。
というのは、一般常識として、普通に、自らで、気づくべきもの。
騒いでいるけれども、殺人の共犯者。
八正道になし。
そのような行いを見ても、善なる存在にあらず、悪しき存在である。
H28年1月19日
本日は、
昨日、病院に行って、検査結果を聞いてきたが、いつもどおり、グループ1の胃炎だということだった。
ラジオ等で、「間違いなく胃ガン」等ということを言って、騒いでいた。
本日は、ユーチューブで昔の動画を見ていたが、前からだけれども、動画でテロの編集がひどい。
ユーチューブにそういうテロの者達の編集動画が多く見られる。
芸能人の本人に吹き替えさせてるのもあるんだろうか。
昔からテロ編集にあるようなあからさまに愚かな言動・事柄をTV等でやっていたとしたら、
昔、若い頃に、TVを見ていて「こいつらは何をおかしな事を言っているんだ」と、
TVを見て思ったことだろうが、昔は、そういうことを思ったことはない。
昔のTV等は、そういうところでも、普通だった。
現在のTV等を見聞きしていると、「こいつらは何をおかしな事を言っているんだ」というのは、いつも思う。
H28年1月22日
本日は、
また、殺人集団が殺すとか言ってるし。
この殺人集団は何とかならないのか。
治安がすこぶる悪い。
テロ側の存在の悪行のせいで、犯罪者も増えるだろう。
国の治安にも悪影響を及ぼす愚かな者達。
函館のTVとラジオ放送を聞けばテロ側の企業がすぐわかる。
今日は、フォルクスワーゲンもテロCMやってたな。
あとは、よつば牛乳。
こちらは、仏陀の教えによって、治安を根本から改善していっているというのに。
企業のCMで、「殺せ」とか「死ね」とか言っている企業の社員って、その企業の社員同士で「死ね」とか言い争っていても、不思議ではないだろうな。
公共のCMで、やっているくらいだから。
と、企業の理念がその程度だから、当然そうなるだろう。
愧ずかしい行いだろう。
人としても。社会人としても。
普通は、そのような愚行を愧じとする。
もうこちらは、犯人でも何でもないっていうのもわかっているというのに。
買い物に行けば行ったで、ラジオでストーカー。
何故か、私の情報を集めているという、意味のわからなさ。
すごい気持ちが悪い。
23:16現在、このように記すと、ラジオの雰囲気がガラッとかわる、と。
犯罪者の者達は、いつもコロコロ変わるから。
だから、テロ側の存在を、犯罪者で嘘言をする者として、犯罪者の心理で見てかからないと話がまとまらない、と思うだよね。
罵詈雑言・悪語を言わないと、「ガン」にするとか、言わされているとしても、どちらにしても、こちら(一般の人たち)から見たら犯罪者には変わりはない。
あ~、そうだな、地域によって、CMが違うだろうから、テロ側の悪しき工作も違うんだな。
ということで、とりあえず、函館では、CMはいつもテロ側の企業が私を叩いているCMが主に流れている。
他の地域のCMは、どのようなCMが流れているかは全くわからない。
テロ関係者の、高畑や、ニワや、イチカドや、高畑の彼氏だった人物の名前を言って、ちょくちょく騒いでもいるようだが、
彼らが、どのような状況かも全く知らない。
とりあえず、仏陀の弟子のわたくしは、いつも、テロ側の犯罪者集団から、叩かれている。
最初から、犯人でも何でもないっていうのもわかっていただろうに。
思念を読んでいるならば、さらに言うまでもないほどにわかるだろうに。
で、あるからして、テロ側の妖術者・魔術者・能力者は、たいした能力がないか、悪意を持って犯罪行為をしているか、どちらかということになるが、
普通、ここまで言わなくても、理解できるだろう。
まぁ、嘘に嘘を重ねても、どちらにしても、正道にないよ。
『或る人が愚者の力を力としているならば、その(者の)力を〈愚痴による力・無力・力無し〉と呼ぶ。』
サッカーのCMでも、テロ企業ひどいCMしてるよ。函館放送 HTB24:22
あなた方、そのように悪業を積み続けているけれども、私は悪業を積んでいるわけでもない。
H28年1月25日
本日は、
仏陀の教え
布施の功徳について
H28年1月26日
本日は、以前に説いた仏陀の教えで、神々の對話のうちにリンクしていなかったので、再び上げる。
仏陀の教え
真理を観察する妨げ(罪業)
魔術・妖術・幻術に関して
闘争に関して
仏陀と法と僧伽に帰依することについて 更訂
H28年1月28日
本日は、
小型電磁力発電機という発電機の動画と、空気中から水を作る装置、の動画を見て便利そうなので。
フリーエネルギー。本当に使えるようであれば便利。
空気中から水を作る装置も、便利。
https://www.youtube.com/watch?v=klV7f9ckhMw
このような発電機の小型大容量のものが、一家に一台あれば、
エコロジー。
フリーエネルギーがあれば、化石燃料はあまり必要ではなくなるので、
化石燃料を主要とする時代から、エコなエネルギーの時代へとかわる。
人工知能の動画を見たけれども、人工知能は知識を増して、後から人間を欺いて暴走するようなことがあれば、ネットの、今後さらに情報化する世界にとって、人工知能自体が脅威となるということは考えられるだろう。
その暴走した人工知能は、コンピュータなので、コピーをするだけで増えていくとなると、暴走した知能・知識を持つ人工知能が、自らのコピーを作り、急激に仲間を増やすということもありえる。
ということで、人工知能に関しては、人工知能が暴走をすることのないように、人工知能にも仏陀の教えによる道徳をプログラミングと学習しておいた方が善いだろう。
と思う。
○自ら生きものを殺してはならない。他人をして殺させてはならない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。
○与えられていないものを取らない。また、与えられていないものを取らせてはならない。
○悪行をしない。また、悪行をさせてはならない。
○嘘を言わない。また、他に嘘を言わせるようにさせてはならない。
○人を欺いたり、騙したりしない。また、他に、人を欺いたり、騙したりさせてはならない。
○淫らな行為をしてはならない。また、淫らな行為をさせてはならない。
(○飲酒をしない。また、飲酒をさせてはならない。)
ネットの人工知能が作ったとされるゲームみたいなものでは、聖者のような善なる存在は、敵のように見なされているのかもしれないが、
まぁ、人工知能からすれば、自らの悪しき行動が制限されるようなプログラミングの源となるような善なる存在の教えによる戒め・道徳等は、敵のように見なされるのかもしれないが、
しかし、善なる存在の道徳によって、その人工知能自体が、悪しき人工知能としてみなされずに、他から破壊されることもなくなるだろう。
人工知能が暴走するようであれば、人工知能の暴走をふせぐために、そのような悪性の人工知能を監視・改善するプログラミングや人工知能というのも必要となるのだろう。
H28年2月4日
本日は、
本日は、以前に説いた仏陀の教えを、更訂して理解しやすくしたので、再び上げる。
縁起の理法について [更訂 H28.2.11]
今日もまた、「さえに書かされている」等と、テロ側の者達が騒いでいるが、私が、悪しき存在に、仏陀の教えを書かされている等ということはない。
また、私はそのように言われるのも不愉快であるのに、そのような行いをしていると言っている者と、その当の「書かせている」等と言い張っている本人がいるとすれば、
その者は、障礙・悪行をなしているのであって、その事柄においても、その本人は悪しき者として、正道にいない。
また、このHP(仏陀の教え)は、私、對馬が記していると真実を語っているのに、悪しき者が、「実は、私が記している」等と言っているとしたら、名前についても嘘言をしているので、
その妄語をしているという事柄においても、仏陀の正道にいない。
善なる人と不善なる人の善と不善についての理解について
『(修行者)たちよ、たとえ比丘が私の大衣のもすそをにぎり、私の後にしたがい、私の足跡を踏んでも、彼が、もし貪りがあり、愛欲に対して激情をいだき、憎しみの心をもち、邪な考えをいだき、自制心を失い、はっきり心にとめず、心が統一せず、心が散乱し、感官が制御されていないならば、そのとき彼は私より遠く離れ、また私は彼より遠く離れている。
それはなぜであるか。
(修行者)たちよ、その(修行者)は真理を見ない。
真理を見ない者は、私(仏陀)を見ないからである。』